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 日頃より,本校PTA会員の皆様におかれましては,古河中等教育学校の教育活動に対してご理解ご協力をいただき,誠にありがとうございます。

 私個人の取り組みとして,PTA会員である保護者の皆様や教職員など子どもたちの成長を考える皆様へ,このページから教育や子育てに関するメッセージを発信してきたところですが、平成28年3月22日をもって、当ブログの更新を終了いたします。

 本サイトの別ページにて、過去ログを正順で整列したものがありますので、思い出したときにでもご覧いただければ幸いです。

 

 茨城県立古河中等教育学校長  杉田 幸雄

けやきの樹のように(H280322)

 子どもたちは、これからの時代を生きていく上で、いろいろな価値観にさらされることになります。その価値観は大人が作ってきたものですが、それにどのように向かい、それをどのように取り込むかは子どもたちが自分の人生を歩んでいく上での大きな課題となります。

 子どもたちが自分を取り巻く社会との関わりを見いだし、生きるということに真剣に向かうには、子どもたち自身が自立に向けて成長していくことが必要です。

 

 「けやきの芽」という題名は、いずれ次代を担う子どもたちが「けやきの樹」のように太く大きく育ってくれることを願って付けたものです。そのためには、親や教師はどのように子どもに接していけばいいのかを考えていく必要があります。

 

 今まで多くの子どもたちやその親、現場で試行錯誤する教師たちを見てきました。人を育てることは決して簡単なことではありません。しかし、親や教師たちが間違った方法を選ばなければ、子どもは自然と成長していくことも事実です。

 

 子どもを成長させるには、大人である親や教師も一緒に成長することが必要です。それには、些細なことにとらわれない広い心をもち、ものの本質を深く考えていくことがとても大切です。

 そして、子どもを幸せにするには、親もまた幸せを感じることが必要です。子どもは親の生き方を見ています。親がどう生きるかは、自分だけの問題ではありません。

 

 大切なものを失わないために、私たちも自分自身の人生をしっかりと見つめていきたいものです。

 

 

 いろいろと勝手なことを述べさせていただいた当ブログですが、今回をもって終了したいと思います。読み苦しいところの数々にもかかわらず、今までご覧いただいた皆様には、深く感謝申し上げます。

「貢献」の言葉に潜むもの(H280314)

 貢献という言葉の向こう側には、人や社会というものがあります。では、この貢献の言葉のこちら側、自分の側には何があるでしょうか。

 人の役に立っている、人から必要とされるという感覚は、社会の中での自己の確かな存在価値を知り、自分の生の充実感が自分以外の何かによって与えられていることに気付きます。

 そして、そのことによって心が満たされるとき、社会に貢献する喜びや達成感をとおして、自分と社会とのつながりを実感できることにもなります。

 

 人は、自分が幸せであることを望むように、自分の周りの人も幸せであってほしいと願います。他者との比較という心の揺らぎは存在すれども、突き詰めれば皆幸せであって欲しいと願う気持ちに行き着きます。

 一方、物を手に入れるというレベルの幸福感は、はかない感覚でしかありません。次を求める欲求が、その幸福感を一時的なものとしてしまいます。

 

 いろいろな喜びがある中で、自分を取り巻く人々や社会に貢献することによって得られる喜びは、より深く自分の心に定着します。人には、その心の底辺において、自分の周りの人や、自分を取り巻く社会に生きる人々が、穏やかで幸せであってほしいと願っているものです。

 そのような視点で考えれば、他者への貢献によって得られる喜びは、人という社会的な動物に備わった本能的な喜びなのかもしれません。

 

 この喜びの関係性は、一般的な社会貢献だけではありません。最も基本的で本質的な相互関係は、家族や親子の関係の中にこそ存在します。

 親には親の人生があり、子どもには子どもの人生があります。親は子どもの幸せを願い、子どもは親の幸せを見て幸せを感じます。幸せな人生を生きるということは、幸せを感じられるような善い生き方をするということです。人は、自分以外の人のために生きて、はじめて幸せになれるといえるでしょう。

 

 

 多くの人は、その人生の中で幸せを求めて生きています。何が幸せかは人それぞれの感じ方の問題ですが、そのための大切なことをちゃんと大切にしているかどうかが問われることになるでしょう。

 そして、重要なことは、「生きるということは何なのか」という、より本質的な部分への問いかけに、自分の心は何と答えるかです。

 なぜ自分は生きていて、この人生が存在するのか。この哲学的な問題こそが、自分の「生」に真剣に向かうための問いかけになります。

 

 

 さて、あなたにとって一番大切なものとは何でしょうか?

「持つこと」と「在ること」のバランス(H280307)

 人生の価値観をどこに置くかという視点は、どのように生きるのかということを方向付けるものです。

 多くの人が、その人生の目標として、自分が望むものを「持つこと」に価値を置いています。それは、お金だったり、学歴だったり、地位や肩書きだったりします。それらを必死になって追い求めることを人生の目標としています。

 

 しかし、「持つこと」のみにとらわれると、その欲求はとどまるところを知りません。たくさんのものを手に入れようと、いろいろ求め続け、決して満たされることにない人生を過ごすことにもなりかねません。いわゆる「煩悩」というのは、この「持つこと」への渇望から生まれてくるものです。

 

 一方、「在ること」に価値を置く生き方とは、「自分はいかに在るべきか」「どれだけ自分らしく自分自身を生きられるか」を目指す生き方です。

 この生き方ができる人は、大切な何かをなし得る力を潜在的な能力として身に付けています。「自分自身である」ということによって、本当の強さを獲得しているといえます。

 

 この二つの考え方の最も大きな違いは、「持つこと」は自分の意識を将来へ向かわせることであり、「在ること」は自分の意識を「今」に置くことです。

 人がその心の充足感を満たすには、この両方のバランスが大切になります。将来を意識し、「持つこと」によってのみ将来の幸せを考えるのであれば、それは実に不安定なものとなります。手に入れることのできない不安と隣り合わせといえます。

 

 一方、意識を「今の自分」に置いて、自分の在り方や感じ方を大切にするということは、幸せな生き方へとつながっていきますが、そのような環境を作り出すには、自分の心に応ずる「持つこと」にも大きな意味があります。

 創造や挑戦を生み出す心の働きは、この「持つこと」への憧れによるところが大きいといえます。夢や希望も「持つこと」に由来することが多いでしょう。そして、この「持つこと」は、そのための「今の自分」の在り方を方向付けていきます。

 このように、「持つこと」と「在ること」は、相互に影響しているといえますから、そのバランスが大切なこととなってきます。

 

 「持つこと」は「在ること」のために必要とされ、「在ること」は「持つこと」を意味づける大切な要因といえるような気がします。

ひとりになること(H280229)

 ひとりでいる時間をつくることは大切なことです。人の心は、二面性のバランスのなかで環境への適応を模索します。より社会的な部分に価値を見いだすには、社会から離れたところに身を置く経験も大切です。生きることを真剣に考えるには、いずれくる自己の死という哲学的な問いに時間をかけて深く考えることも必要です。

 

 人はその生活の多くの部分を他者との関わりの中で生きています。自分と自分以外のものとの関係性の中に、自分の在り方や生き方を探るわけですが、その本質の部分をとらえるには、逆にひとりになることで気付く場合もたくさんあります。

 

 子どもが自立し、自分という主体を確立し、生きることに意義を見いだし、今ここにいる自分をどう生きていくのかを考えるには、親やその他の身にまとう環境から切り離されることも大切な経験といえます。

 そういう意味では、若いうちに一人暮らしをさせることは、自立心を養う上で大きな意味があります。もっとも、家庭の事情で一人暮らしが難しいこともあるでしょうから、そのような時期に、意識の上だけでも「親離れ子離れ」を考えることが必要になるかもしれません。

 

 人は、ひとりであるからこそ見いだす価値があります。関係性の中に生きていかなければならない人間であるからこそ、関係性が希薄な状況を体験することにも意味があります。

 

 人間の本質は、個という自己の確立にあります。しっかりとした自分があるからこそ、自分と自分以外のものとの関係である社会性が築かれていきます。

 人間は社会的な動物ですが、大切なことは、社会性という架け橋のこちら側である自分を見つめることです。研ぎ澄まされた感覚で自分の心を見ることです。すべての価値、すべての豊かさは、それを意味づける自分の心の中にこそあるものです。

 

 自分という存在の外側には、自分が生きている社会や広大な宇宙という世界があります。

 しかし、それと同じ大きさの領域が心の中に存在します。何気ない日常の中で、人はあえてそれを見ずに生きていますが、若い年頃の多感な時期にひとりになって、物事の奥深くに横たわるものに思いをめぐらすことも大切なことといえるでしょう。

 

 人は、その心の内側に深遠なる宇宙を擁しているといいますが、煩雑な社会に生きていかなければならない現代人であるからこそ、時にひとりになって自分の心と向き合うことも必要なことなのかも知れません。

答えのない世界(H280222)

 今の子どもたちの学びの環境を考えると、物事の問いかけには必ず答えがあるということに慣らされているといえるでしょう。

 このことは、今までの学校教育がそのような環境を作っているところがあり、子どもたちは「正解がある」ということを当然のように考えています。

 

 これは、学校内での試験から大学入試まで、必ず正解がある問題を出題している影響といえます。学校や大学が行う試験というものは、客観的な学力を計るためのものであり、たとえ論述形式の試験であっても、正解というものが必ず存在します。

 

 子どもたちは、その多くの時間を、既に答えが用意されている世界に生きているといえます。これは、子どもたちが自分の夢や目標を追いかける手段にもいえることです。

 既に用意されている正解と思えるレールの上を、いかに脱線せずに進んでいくかによって将来が決まると思う人がたくさんいます。

 

 ところが、この変化の激しい世の中においては、自分が取り組む問題にしても自分の生き方にしても、正解というものが見つけづらいのが現実といえるでしょう。本来、人間が生きている世界には、正解というものがないことのほうが普通なのだといえます。

 

 いろいろな科学的分析や実証的な哲学まで動員しても、世の中というのは、自然界の法則から人間の生き方に至るまで、正解という真実(真理)に近づくことはできても、そこにたどり着くことはできないような気がします。

(余談になりますが、勝手な自説を数学的に表現すると、「真理は無理数的存在であるが、しかし、私たち人間は有理数測度の世界に生きている」ということです。)

 

 私たち人間は、正解を生きることはできません。ただ、それを求める過程において、何かを感じ取ることができるものです。人間の思考や意思というものは、作られた多くの答えが用意されている中に、その本質や、あるいは別なものを感じ取ることができます。

 

 人の生き方は様々です。作られた答えに向かって生きる人もいれば、自分で答えを作りに行く人もいます。中には、あえて答えを求めない人もいるでしょう。

 

 何が正解で、何がいい生き方なのかは、各自が判断することです。そういう意味では、今の世の中をどのように生きていくかを考えると、「正解」ではなく「納得解」を求める生き方が見えてきます。

 後悔しない人生とは、その生きている時間の瞬間瞬間で、「納得解」を得ているかどうかの積み重ねによるものといえるような気がします。

許さなければ許されない(H280215)

 どんな困難もひとりで解決できるように努めることは、かっこいいことかもしれません。しかし、どんな人も一人では生きていくことはできません。そればかりか、人は必ず他人に迷惑をかけながら生きているものです。

 

 昔の道徳では、「人に迷惑をかけないこと」を道徳の原則として子どもに教えてきました。誰もがそう努力することで社会の秩序が保たれ、よりよい社会になると考えてきました。

 もちろん、そうであるに越したことはないのですが、残念ながら人に迷惑をかけずに生きている人はどこにもいません。

 もし、自分は誰にも迷惑をかけていないと思っている人は、強い自意識の世界の中で、そのような錯覚をしているだけです。ことの真実が見えていません。

 それは、本人が知らないだけで、自分は迷惑をかけていないと思っている人ほど、まわりに迷惑をかけているものです。

 

 生き物の殺生についても同様です。動物愛護法という法律がありますが、この法律はすべての動物を対象としているわけではありません。動物愛護法の対象となる動物は、家庭動物などの人との関わりのある動物とされています

 どんな生き物にも命というものがありますが、人は保護すべき命を区別しているといえます。これは、区別せざるを得ないというのが本当のところでしょう。この法律は、動物のためというより、人の健全な心の保全のためにあるように思えます。

 スーパーにいけば、牛肉や豚肉がたくさん並んでいます。ほとんどの人は、そこに命をみることなく買い物かごに入れます。霜降りやフォアグラは、そうであるように作られた命といえます。

 

 私たちは、多くの命の犠牲の上で生きています。もし、それを悪いことと考えたら、人間は永久にその罪から逃れることはできません。

 人にはそのようにしか生きられないというものがたくさんあります。人が生き物である以上、他の生物の命を必要とし、人が社会的な動物である以上、何らかの形で他人の世話になっています。大切なことは、そのような事実を認めることです。

 

 インドでは、「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい。」と教えるそうです。

 人はそのようにしか生きられないのであれば、生きていることに感謝し、多くの命に感謝し、人を許し、自分を許すことが、私たちが私たちの「生」を生きていく上で大切な「心の在り方」といえるような気がします。

心が織り成す「反射の法則」(H280208)

 人の心は基本的に他者からは見えません。ですから、思考やその奥の心理の部分は、すべてその主体である自分の責任下にあります。

 しかし、人がその心の有り様に従って行う行為には、必ず周りの環境の変化となって返ってきます。それは、人間関係だったり、社会的なものだったり、経済的な事柄だったり、物理的な現象だったりします。

 

 思考や心の力は強大です。その強大な影響力は、その人の環境を変えずにはいられません。

 「与えれば与えられる」「奪えば奪われる」「嫌えば嫌われる」「感謝すれば感謝される」という反射の構図は、心理の世界に働く原理原則ともいえるものです。

 この法則は、自分を嫌う人には近づきたくないと思う気持ちや、自分に親切にしてくれる人には恩返ししようという気持ち以上のものがあります。

 

 人に行った心的行為は、巡りめぐって別な人から別な形で返ってくることがあります。因果応報という言葉がありますが、こと人間の心のなす行為については、まさしくこの言葉のとおりだと思います。

 ですから、人は自分の置かれている環境に責任を持たなければなりません。自分を取り巻く環境は、自分の心を写す鏡であるともいわれます。人が自分に厳しくあたるのは、自分が他者に対して厳しい目を向けているからであり、人が自分を悪く言うのは、自分の中に人を責める気持ちがあるからです。

 

 逆に、どんな環境であっても、自分の心が変われば、自分を取り巻く環境は変わってきます。特に、人間関係については、この法則は顕著に現れます。

 もし、自分が他者に対する感謝の気持ちと慈愛の念を持ち続ければ、必ず自分の周囲が変わってきます。変わらないとすれば、それは自分が本心でそう思っていないからに他なりません。

 

 人の思考や心の奥底で考えていることは、その人の生活環境だけでなく、生き方や人生にも深く根付くことになります。

 人は自分が考えるように自分の人生を営んでいます。自分の心の在り方が自分の人生を意味づけています。ですから、自分の人生が身勝手な心の感情の支配下に置かれることのないようにすることが大切といえます。

 

 最高に輝ける人生は、最高に輝いている心から生まれます。その心を輝かせるのも、自分自身の心の在り方しだいといえるでしょう。いつの世も自分は自分の人生の主人公であることに変わりはありません。

豊かさは心の中に存在する(H280203)

 ものの見方、ものの感じ方というのは人それぞれです。ですから、同じことを行っても、同じものを見ても、そこに何の価値を見いだすのかは、自分の心の内面によるものが大きいといえます。

 

 例えば、散歩をしていて、ふと道端の「つくし」を見つけたとき、何のことはない普通の野草とみる人もいれば、春の訪れを感じる人もいます。はたまた、時の流れの永遠と生命の力強さを感じる人もいます。

 人は、自分を取り巻くものに触発されて、自分の心の中で応じるものを自分で見出しているのです。

 

 そういう意味では、「豊かさ」というものの本質は、自分を取り巻く周りの世界に存在するのではなく、自分の心の中に存在するといえます。となれば、自分の心を豊かにすることが大切となってきます。それこそが、自分の能力を高め、人生を豊かにする方法といえるかもしれません。

 

 私たちは、毎日いろいろな習慣によって生きています。それと同じように、人は知らずと心の習慣というものを作り出しています。そして怖いことに、生活習慣病というのは、体だけでなく、心にも存在します。

 

 毎日の小さな習慣の繰り返しが、心を病気にしたり健康にしたりするものです。毎日、人の悪口を言う人もいれば、毎日、人を喜ばせるように心がける人もいます。怒ってばかりいる人もいれば、素直に感謝できる人もいます。その心の有り様によって、その人の生き方が全く違うものになってしまいます。自分の人生も、自分を取り巻く環境も、全ては、その人の心が作り出すものです。

 

 自分の周りには、いろいろな人がいます。人間多種多様で、考え方も生き方も人それぞれです。「嫌いな人」というのが存在するのではありません。「嫌っている自分」が存在するだけです。

 

 感情というのは、自分の心を映し出しているものです。自分が人をどう思っているかは、自分が人にどう思われているかを鏡のように反射している心の働きです。

 あの人もこの人も嫌いと悪口を言う人は、あの人からもこの人からも嫌われています。あの人もこの人も好きという人は、あの人からもこの人からも好かれている人です。人は、知らずと自分の心のあり方に責任を取らなければならないように生きているものです。

 

 世の中は、なるようになるものであり、ならないようにはならないものです。それらの一切合切を受け止め、豊かな人生を歩んでいくためには、そこに豊かさを見い出す心の在り方が大切だといえるでしょう。

すべては「今」にある(H280126)

 過去にとらわれすぎることの弊害は先に述べたところですが、未来にとらわれすぎるのもよくありません。

 もちろん、夢や希望を持つことや未来志向が悪いということではありません。夢や希望、そして具体的な目標は、人が成長するのに大きな役割を果たすものです。また、物事を成し遂げるには成功のイメージが必要になります。

 ここでの問題は、自分の心の中にはびこる不安定な未来がもたらす不安感のことです。

 

 未来というのは、いまだ存在していない思考上の世界です。現実ではありません。思考が未来の状況をつくりだしているから心の中に不安が生じます。そして、人は今のことなら取り組めますが、未来のことでは取り組めません。そういう意味で解決策のすべては「今」にあります。

 

 夢や希望を持ち、具体的な目標実現のイメージが確立しさえすれば、あとはすべて今の問題になります。

 もし、今の状況に問題があり、あるいは今の自分を変えようと思うのであれば、今の自分を受け入れることが大切です。まずは、今の自分を受け入れないと変われません。

 さらに言えば、今の自分にとって、起きているすべてのことに意味があります。悩んでいること、目の前の困難、自分の弱さからくる不都合な出来事。すべては未来を変化させる要素となります。

 

 今この瞬間にどんな問題があるのかを考え、行動することこそ大切なことです。未来に向かうのに忙しすぎて、今をないがしろにしてはいけません。今の自分の行動が未来の自分を決定付けています。

 

 今日という日は、これから始まる未来の最初の一日目といえます。不安定な未来に思いを馳せるより、目の前の今日という日を大切にすべきでしょう。

 どんなに夢多き未来を思い描いていても、始めなければ始まりません。逆に始めてしまえば、それを習慣にすることで、自分で考えている以上のものを得ることだって可能になります。

 

 「じゃ、いつやるか。今でしょ!」は、使い古された言葉ではありますが、的を射た言葉であることに違いはありません。

健全な自分を生きる(H280118)

 世の中には、いろいろなタイプの人がいますが、現代に生きる多くの人が過去と未来にとらわれすぎているといえます。

 特に、必要以上に過去に振り回されている人がたくさんいます。自分の行った過去の行動について、くよくよしたり、人の行動に愚痴をいったり、心穏やかな日はないくらいに、毎日毎日過去を振り返っては、感情を乱しています。

 

 人は過去にとらわれすぎると、自分や他人の嫌なところが目につき、うつになります。自分の行いを後悔したり、人を憎らしく思ったりして、怒りの感情や不愉快さを身にまとうことになります。

 その感情によってなされる行為は、決してよいものにはなりません。特に怒りの感情による行動は破壊でしかありません。自分と自分の周りのものをより悪い方向にしか導かないものです。

 よく、業が深いという言葉で表現しますが、業の深さは人が乗り越えるべき精神的な壁となります。その壁を乗り越えることは、過去の自分を乗り越えることでもあります。

 

 そもそも物理的な現象はともかく、人の心の中に存在する過去は、そのとらえ方や意義付けを変えることで、その価値を変えることができます。心の世界では過去は変えられるものといえます。

 

 ポジティブ・シンキングやプラス指向は、幸せな生き方を身に付けるためには必要なことです。マイナス指向の人が幸せを感じることは少ないでしょう。

 しかし、どんなときも気持ちを前向きに保つことはそう簡単なことではありません。人は落ち込むこともあれば、不安になることも日常茶飯事です。時には、暗い音楽を好んで聴いて、積極的に暗い気分に浸りたくなるときもあります。それは心の陰陽のバランスがそれを求めているからであり、悪いことではありません。

 ただ、過去に思いを馳せることで感情が乱れることを繰り返し行うことはよくありません。基本的に、疲れたときには、考えない、思わない、そして十分に睡眠をとることが大切です。

 

 現代を生きるには「忘れる能力」が大切だといいます。くよくよしない、怒らない、人を憎まない・・・。不本意な過去という概念に力を与えないためには、心のエネルギーをそのことに注がないこと、つまり「忘れること」が必要です。

 

 大切なことは過去ではなく「今」に目を向けることです。今、自分がここにいて、空気があって水があり温度がある。木々は風にそよぎ、日の光が降り注ぐ。食べるものがあり、時間はほとんどの問題を解決してくれる。そして、自分の周りには大切な人がいる・・・。

 それら、当たり前のように思えるすべてのことに感謝できるとき、人はその心のうちに強い生命力を蓄えることになります。

 

 過去にとらわれすぎず、自分の意識が存在している「今」というこの時間を、そのような平らな気持ちで生きることができれば、それはそれで幸せな生き方といえるような気がします。

自分で決めた選択に誤りはない(H280112)

 世の中の多くのものがそうであるかもしれませんが、自分の身の振り方を定めるとき、白黒はっきりしている状況というのはめったにありません。試験の○×問題のような選択であれば簡単なのですが、決め事によっては、「6:4」とかの悩ましいレベルの状況が多いものです。

 

 決めた後で、「あのとき、別なほうを選んでおけばよかった」と思うこともあるかも知れませんが、自分で意を決して決めた選択に誤りはないものです。

 もし、誤りがあるとするならば、自分以外の人の選択に身を任せたときでしょう。

 

 人生というのは、選択の連続のようなところがありますが、自分の人生を自分らしく生きるということは、その選択のひとつひとつを自分で決めるということに他なりません。

 自分以外の人から見たら、こっちのほうが絶対にいいと思えることでも、本人にしてみればそうでないこともあるはずです。何がいいのかは、その人生を歩んでいかなければならない本人しだいといえます。

 

 もっとも、本人が、周りの人に配慮して決めるということはよくあることです。子どもが親と相談して決めることは一般的であり、親の思いは子どもの判断に大きく影響します。

 また、迷いや悩みがあるときに、いろいろな人に相談してみることは、とても大切なことです。まだ経験が少なく、自分の知っている世界が狭いのであれば、他者の意見を参考にして判断することも必要でしょう。

 しかし、それも本人の選択のうちであれば、大きな問題ではありません。大切なことは、自分の意思で決めたかどうかにあります。

 

 どのような選択をして、どのような道を進んだとしても、それが自分の選んだ道であるならば、それは最良の道となるものです。勉強、部活、大学進学、就職、結婚、子育て・・・。どんな選択の結果が、将来の「今」を形作ろうとも、そのときの「今」の環境は最良の環境となりえます。

 

 このことは、視点を変えて考えてみれば、選択する行為よりも選択した後の生き方のほうが、その人の人生にとってより重要な結果を与えるということです。人生は選択の連続ですが、選択した後の生き方によって、選択そのものの価値を変えることができるものです。

 そういう意味では、過去は変えられるものといえます。

 

 問題は、その選択に価値を与える前向きな生き方ができるかどうかによりますが、「自分で決めた選択」であるならば、それが可能になります。

 実際のところ、人は常に正しい選択の連続によって「今」に存在しているといえます。人が持つ損得へのこだわりに固執すれば、そのような価値観での世界になってしまいますが、より高い視点で見るならば、「今」に存在している自分は、それだけで大きな価値を持ち、未来への可能性を秘めています。

 中国の故事に「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。不確定な未来と変化する価値観の中では、人の人生などまさにこの故事のとおりのように思えます。

 

 人生が選択の連続であるならば、自分で決めた選択を誤りとしないためにも、ひとつひとつの「今」を一生懸命に生きることが大切であり、それが自分の人生に責任を持つ生き方といえるでしょう。

除夜の鐘(H271228)

 大みそかの夜には、除夜の鐘を鳴らすのが日本の伝統となっています。テレビ番組の「ゆく年くる年」でもいろいろな場所での風景を映し出し、今年一年の出来事に思いを馳せることになるでしょう。

 

 この除夜の鐘は、人の煩悩を取り払うことを願って鳴らすわけですが、人の心に住みつく煩いや悩みというのが108つもあるわけですから、人の世の苦しみというのは絶えることがないようにも思えます。

 

 煩悩とは、「人が生きていく上で苦しみを生み出す心の働き」といえるものですが、この煩悩の根源であり親玉となるのが、「怒り」「貪欲」「無知」といわれています。

 怒りの感情に身を任せて行動すれば、物事を破壊せずにはいられません。際限のない貪欲さは、俗にいう「塩水を飲むがごとく」のように、いくら手に入れても決して満たされない心を生み出します。

 また、物事の道理を知らない無知によって、独りよがりで我がままな世界に心を置けば、生きることに安らぎを覚えることが難しくなります。

 

 人は人である以上、「そのようにしか生きられない」のも事実です。それを知った上で、できるだけそれらの煩悩を振りほどいていくことが大切なことなのだと思います。人の成長にとって一番大切なことは、心が育つことといえるでしょう。

 

 さて、今年一年を振り返ってみて、子どもたちもいろいろ感じるところがあると思います。学校での勉強や家での勉強のこと、部活動や友人関係、親との関係・・・。やるべきことをちゃんとやってきたかということは、自分にとって大切なことをちゃんと大切にしてきたかということです。

 これは子どもだけでなく、私たち大人も同様です。子どもを育てる上で本当に大切なものを見失わずにいることは、とても難しいことでもあるわけですが、それはいつの時も問われていることでもあるのです。

 

 今年も大みそかの夜、耳を澄ませば除夜の鐘の音が聞こえてくると思いますが、それを聞きつつ、今年の自分の生き方を振り返り、来年さらにより善く生きることができるようにと願うばかりです。

 

 良い年をお迎えください。

正しさにこだわり過ぎない(H271221)

 奈良県興福寺には、国宝阿修羅像があります。怒りと悲しさを漂わせ、秘められた激しい思いを伝えるこの仏像に魅了された方はたくさんいることと思います。

 ご存知かもしれませんが、阿修羅神は、もともと正義の神様でした。しかし、正義というものにこだわり過ぎたゆえに、天界から追放され、戦いの神になってしまいました。

 

 これは、人の業への戒めといえるものです。人は、自分が正しいと思うことにこだわり過ぎてはいけないという教えです。自分の正義を主張すればするほど、相手の非をあげつらい、その存在を否定することになります。信じて疑わないほどの正義は、阿修羅のごとく戦いを好みます。

 

 人が生きる上で大切なことは、正義を貫く信念以上に、ほんの少しでも相手を思いやる「いたわりの気持ち」を持つことです。思いやりのない正義は戦うことを好み、その正義からは心の穏やかさは生まれてきません。

 

 親と子で意見が対立することはよくあることです。親からすれば、子どもより長い人生を生きてきた分、世の中のことも見えるし、子どもにとって必要なことも分かるでしょう。「親が正しく、子どもが間違っている」と思えることのほうが多いはずです。

 

 しかし、親が必要以上に正しさを振りかざすことにも問題があります。正しさは、鋭利な刃物のようなものです。思いっきり振り回した刃は、子どもに致命傷を負わせることにもなりかねません。

 必要なことは、事の善悪も含めて、まずは全てを受け止めることです。そして、できれば子どもの気持ちも理解してあげることです。物事をどう進めるかは、その後の話です。

 

 余談になりますが、先日「SEKAI NO OWARI」というグループの歌を何気なく聴いていたら、「人が生きる」ということをよく表している歌だと感じました。世情に懐疑的でありつつ、若者が若者らしく世の中を見て、自分たちの時代を真剣に生きていこうとする思いを感じました。

 未来は意外と明るいかもしれません。

子どもの成長に必要なもの(H271214)

 よく、「子どもが○○といっている。何とかして欲しい。」と子どもの要求をそのまま学校や教師に申し出る親がいます。子どものことを心配して、何とか問題を解決してあげたいという親心だとは思いますが、実際そのようにして問題を解決しても、子どもの成長のためになることはほとんどありません。

 これは、子どものためというよりは、親自身のためであることが多いからです。

 

 いじめとかの重大な問題は別として、本来子どもの力で解決すべき問題を、親が学校に進言して解決を図ることには大きな問題が潜みます。子どもの心には、自分に不都合なことがあれば、親に言えば何とかしてくれるという甘えが習慣化されます。さらに、自分の課題は自分で何とかしようという自立心を奪うことにもつながります。

 

 基本的に,親が目先の問題にとらわれ過ぎて,必要以上に子どもの課題を取り除いてはいけません。子どもの成長には、乗り越えるべき壁が必要です。それは、困難さだったり、不自由さだったり、不便さだったりします。

 人は、目の前の壁を乗り越える過程において大きく成長していきます。思い悩んだり、深く考えたり、相談したり、行動したり、努力したりするものです。そのような、いろいろな成長の過程を経て自分の壁を乗り越えていくことになるわけです。

 

 もし、乗り越えられないのであれば耐えることも大切です。子どもの成長にとって、我慢する気持ちや忍耐力を身に付けることも必要なことです。世の中何でもかんでもうまくいくとは限りません。勉強だって簡単ではありません。世の中には、思い通りにならないことや困難なことがたくさんあります。どんな状況でも力強く前に進むためには、困難に対する耐性が必要になります。

 子どものこれからの人生を考えれば、壁を乗り越えたり、困難に耐えたりすることは、とても大切な経験といえます。

 

 18世紀の哲学者にルソーという人がいますが、彼はその著書「エミール」の中で次のように述べています。

「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か・・・それは、いつでも何でも手に入れられるようにしてやることだ。」

 

 子どもの成長にためには、困難なことや思い通りにならないことが必要なのです。不自由な環境は、何でも思い通りになる環境よりも自立的な成長を促します。子どもは苦しいながらも、自分の問題は自分で何とかしなければなりません。

 親がすべきことは、子どもの壁を取り除いてあげることではなく、子どもが自分で壁を乗り越えることができるように、心をサポートしてあげることといえます。

分かりやすさを超えるもの(H271207)

 子どもも親も分かりやすい授業を求めます。そして、一般には、授業における疑問点を次に持ち越さないことが大切だといわれています。

 しかし、近視眼的に求める分かりやすい授業というものには、危なさも潜んでいます。

 

 世の中には、いろいろなタイプの教師がいます。生徒目線で見たときに、分かりやすく独特の雰囲気で話に引き込む先生などは人気があります。予備校のカリスマ講師などは、まさにこのタイプです。話が上手で、リズミカルな授業でポイントを的確に絞り込むというテクニックに長けているわけです。

 

 しかし、そのような教師の中には、単に「分かった気にさせる」のが上手な先生がいます。本当は、生徒はその本質の部分を分かっていないのだけれど、それでも分かったような気にさせてしまう雰囲気作りの得意な先生です。このような教師は、往々にして生徒に人気があります。

 

 もちろん、生徒を授業に引き込む教師の魅力というのは大切です。しかし、場合によっては、生徒がその授業を楽しむだけで終わってしまうことがあります。何の疑問点もなく、与えられたとおりのことをして時間が過ぎていくわけです。これは、分かりやすいから、逆に自分で考えることをしなくなるという現象です。

 

 逆に、分かりづらい授業の例としては、難解な言葉や抽象的な表現、噛みくどかない説明などによるところがあります。このような授業は、眠くなる授業の代表例となりますが、とらえ方によっては、分かりづらい授業も捨てたものではないかもしれません。

 それは、分かるためには自分でよく考えなければならないという環境を与えているということです。学問を学ぶにあたっては、自分の頭で考えるからこそ身に付く力というものがあります。

 

 深く考えることによって本質が見えてくるものです。学問だけでなく、子どもたちがこれからの時代を生きていくには、答えのない問題にどのように取り組んでいくのかが問われることになります。新たな時代に求められる学力とは、人に与えられたことだけを覚えるのではなく、自分の頭でよく考えて、自分なりの答えを用意できる能力といえます。

 

 この「自分の頭でよく考える」ということのためには、難解な言葉や抽象的な表現、噛みくどかない説明などが役に立つことがあります。

 人は話し相手に理解してもらうために、噛みくだいて話すということをしますが、噛みくだきすぎると表面的な部分をなぞるだけで深さが足りなくなってしまいます。それに、聞く側にイメージを植え付け、想像性を奪うことにもなりかねません。授業を受けるにあたっては、分かりづらさを楽しむ程度の余裕がほしいところです。

 

 もちろん、勉強の苦手な子どもにとっては、そんなことは言っていられないのも事実でしょう。授業の難解さというのは、理解の差によるところも大きいわけですから、自分の理解の度合いのちょっと上ぐらいが適しているといえます。

 

 いずれにせよ大切なことは、授業の中で、どれだけ自分の頭で考えているかということなのです。

いい授業とはなにか(H271130)

 年度が替わり、授業を担当する先生が変わったとき、次のような話をよく耳にします。

 「今度の先生の授業は分かりづらい。去年の先生のほうがよかった。」

 子どもの学力向上を願う親にとって、分かりやすい授業というのは、一番に望むことでしょう。

 

 ところで、この「分かる」ということは、どういうことなのでしょうか。先生の話を聞いて、単なる知識を覚えただけでは分かったことにはなりません。「分かる」ということは、自分の頭で考えて、その仕組みや背景に横たわる意味、本質的な部分を理解できるようになることをいいます。

 例えば、数学でいうならば、公式を覚えてそれを使えるようになっただけでなく、その公式の成り立ちや重要性までちゃんと理解していることをいうわけです。

 

 この「分かる」ようになるために大切なことは、自分の頭で深く考えるということです。深く考えることで本質的な理解に近づくと同時に、思考力が発達します。

 

 この思考力を発達させるための習慣として、授業を受ける際のキーワードがあります。

(1)なぜ

(2)もし

(3)ようするに

 

 単に知識だけを追い求めるのではなく、この3つの言葉を大切にして、自分の頭を回転させながら授業に臨むことです。

 深い思考力を養うには、「なぜなんだろう」という問いかけを常に抱き、あるときには、「もし・・・だったらどうなるんだろう」と思いをめぐらし、最後には、「ようするにこういうことなんだ」という仕組みを伴う理解を目指すことです。

 

 この授業の受け方が身に付いている人は、学びの達人になれます。ただ教わった事実を覚えるだけという人の何倍もの学力を身に付けることができます。

 

 本当の学力を伸ばすことを考えるのであれば、自分で深く考えるということが学びの基本であり、それを導く授業がいい授業だといえます。

 その視点でとらえれば、いい授業とは、表面的な「分かりやすい授業」よりも、奥の深い「考えさせられる授業」ということができるでしょう。

 

 そして、突き詰めれば、どんな授業であっても、その受け方を工夫することで、自らその内容を深めていくことができるものです。どのような意識や態度で授業に臨むかは、学びの主体性を考える上でも非常に重要なことといえます。

 

 学校では、毎日いろいろな授業が行われているわけですが、いい授業とは、ただ単純にそこにあるのではなく、それを受けている自分自身が作り出しているものといえるでしょう。

伸びようとする芽を引っ張ってはいけない(H271125)

 子どもの成長を願う親としては、自分の子どもの目の前の学力、それも数値化された点数というものに視点が行くものです。

 しかし、大切なことは、子どもにとっての本当の学力を伸ばすことであり、それにはある程度の時間が必要となります。

 どんな子どももいずれは大きく成長します。違うことは、それにかかる時間の長さが異なるというだけです。

 

 花壇に種をまくと、いくつもの芽が出てきます。どの芽もいずれは大きく育ち、きれいな花を咲かせます。適度の肥料と適度の日光、定期的な水やりさえ忘れなければ、芽は自分で成長していきます。はじめは芽の長さが違うこともありますが、花が咲く頃には最初の芽の長さなど関係なく育っています。

 ですから、途中、他の芽と比べて伸び具合が悪いといって目の前の芽を引っ張る人はいません。

 

 ところが、子育てについてはどうでしょうか。いずれ大きく育つ芽を、隣の芽と比べて伸びが悪いからといって無理に引っ張る人がいます。肥料をやりすぎる人もいます。

 そうなるとどうでしょう。双葉の頃に芽を強く引っ張りすぎれば、芽は途中で切れてしまいます。肥料をやりすぎると、芽が腐ってしまうこともあります。

 

 どんな芽でも、自分で伸びる力を持っています。伸び方に多少の差はあるでしょうが、いずれはどれも大きく育ちます。大切なことは、その芽がしっかりと伸びるのを「待つ」ということです。

 今の時代の子育てが、なぜ難しく思えるのかといえば、この「待つ」ということができない状況に追い込まれるからです。

 

 点数化された学力、受験や就職といった限られた時間の中での競争、まわりの子どもとの比較、現代社会はそのような期限付きの成長を要求しています。ですから、親は不安や焦りにかられ、「待つ」ということができなくなってしまいます。そして、納得のいく結果とそれによる安心感を得るために、すぐ目の前の成長を求めたくなります。

 

 しかし、この親の不安や焦りは、同時に子どもの心にも負の影響を与えることにもなります。

 成長というのは、自分のスピードでするものです。いろいろなことを経験し、学び、探究しながら自分で伸びていくものです。

 そして、しっかりと大地に根をはり、幹を太くし、たくさんの葉を茂らせる大木になるには、その木の生長を育む時間が必要です。

 

 ことさら大学受験に限ってみても、促成栽培で突破できるレベルには限界があります。希望する進路を手に入れるためには、主体的な学びによって得られる思考力や表現力が必要となるでしょう。個人差はあるとしても、そのための十分な時間も必要です。

 

 子どもが自分で道を切り開いていくことを望むのであれば、伸びようとする芽に適度の肥料と適度の日光、そして定期的な水やりさえ行えば、あとは「待つ」ことが必要なのかもしれません。

勉強するということは誰の課題か(H271117)

 親は、いつのときでも、子どもに勉強して欲しいと願っています。子どもの将来のことを考え、子どもの可能性を伸ばし、子どもが希望する進路を実現できるようにと一生懸命になります。

 場合によっては、どんな学習方法がいいのか、テスト前にしておくべきことは何かなど、子ども以上によく考え心配している人もいます。

 

 特に、親の欲求に対して子どもの行動が遅い場合には、ついつい子どもに行動を促し、細かいことまで指示することになりがちです。

 

 一般的に、親がうるさくいえば子どもは反発するものですが、子どもの中には、指示されることに慣れ、指示されないと何もできないという子どももいます。何から何まで親の指示のもとで行動し、知らずと自立しづらい環境の中で育ってきた子どもです。

 

 さて、勉強するという課題は誰の課題なのかというと、それは子どもの課題であって親の課題ではありません。親は、子どもの課題を肩代わりすることはできませんし、ましてや子どもの人生を代わりに生きることはできません。子どもが自分の人生を力強く歩んでいくためには、自分の課題は自分で解決していくという姿勢が必要です。

 

 前述の心理学者アドラーはこうも言っています。

 「おおよそ、人間関係のトラブルというのは、ひとの課題に土足で踏み込むか、あるいは踏み込まれるかによって起こる」 

 親が、子どもの課題を安易に解決してはいけないということです。親がすべきこととは、子どもが自分で課題を解決できる能力を身に付けることができるように、サポートしてあげることといえます。

 

 困難や壁というものは、生きていく上でいくらでもでてきます。その都度、親が子どもの課題を解決していたのでは、子どもは自分で課題を解決する意欲と能力を失ってしまいます。

 親は、自分の子どもを社会で生きていくことができない子にしたいのではなく、どんな困難にも負けずに歩んでいける子に育てたいと願っているものです。それなのに目先の現実に対しては、その逆をやろうとしている場合があります。

 

 教育熱心であればあるほど、過保護になりやすいものです。子どもの将来を考え、子どもの教育に熱心であることは素晴らしいことです。しかし、子どもの成長を長い目で見ることなく、目先のことにとらわれすぎると問題が生まれます。

 

 子どもより先に親が不安や焦りを抱くことが多いものですが、今やろうとしていること、今言おうとしていることは、本当にこの子のためなのかを、少し間を置いて考えてみることも必要かもしれません。

学力とは何か(H271109)

 子どもの成績が思わしくないときに、親が心配のあまり、それまで活動していた部活動をやめさせ、勉強に向かわせようとする話を聞くことがあります。部活動に費やしている時間を勉強に向ければ、成績も上がるだろうと考えてのことです。

 

 実際、部活動にだけ夢中になっている子どもはたくさんいますし、生活のほとんどの時間を部活動に振り向けている子どももいます。

 ですから、大学受験や将来の進路を考えたとき、早めに手を打たなければと心配する気持ちはよく分かります。

 

 さて、では、何のために部活動をやめさせ勉強させるのかといえば、もちろん学力を上げるためということになるでしょう。学力を上げ、将来の進路を安定させたいと思うわけです。

 しかし、この肝心の学力とは何かについて、よく考えてみる必要があります。

 

 一般的にいえば、学力には大きく分けて次の3つの要素があります。

 

《学力の3要素》

(1)基本的な知識及び技能

(2)思考力、判断力、表現力

(3)主体的に学ぶ意欲

 

 この中で、(1)と(2)は試験で計ることができます。最近では、知識偏重型の学習への反省から、(1)の知識を問う問題から(2)の考える力や表現する力を重視する方向へと試験問題の質が変化してきています。

 これからの時代は、答えのない問題にどのように取り組むかが問われる時代であり、それらに向かうための幅広い能力が求められている時代といえます。そのため、大学入試などでも、そのような力を持っている生徒をいかに選抜するか、入試に工夫を凝らすことになります。

 

 しかし、子どもの学力を考える上で最も大切な要素は、試験で計ることのできない(3)の学ぶ意欲といえます。

 「意欲」は学習効果を飛躍的に向上させます。逆に意欲がなければ、どんなに長い時間勉強しても効果はあがりません。

 

 この意欲というのは、取りかかりの早さと継続性に現れてきます。本気になって勉強しているときは、食べる時間も惜しむものです。そして、夢中で取り組んでいる状態が心に充実感を与え、また次の新たな意欲へとつながっていきます。

 

 部活動をやっているということは、目標に向かって努力する体験と同時に、集団の中での自分の存在に安定感や充実感を見いだすことになります。これが勉強においても目標に向かって学ぶ意欲として醸成され、継続できる力としての重要な資質を育むことになります。

 

 ですから、学力向上を狙って部活動をやめさせることは、反対に、学力の低下を招いてしまう原因となることがあります。

 

 勉強と部活動の両立の問題は昔から言われていることですが、基本的にこれはどこで時間をつくるかという工夫のレベルの問題です。どこでどう工夫するかは子どもが考えることです。本気で勉強しようと思えば、どこででも時間はつくれるものです。

最大の敵は自分自身の中にいる(H271102)

 物事を成し遂げようとするときの一番の障害は、自分の心の中に潜む「逃げたい」という弱気な心です。外側にある壁はどんなに高くても、いずれ乗り越えることができます。しかし、そのためには、あきらめずに前に進もうとする強い心が必要です。

 

 人の限界というのは、そこにあるものではなく、自分が決めているものです。おそらくほとんどの人は、知らず知らずのうちに自分の力を見切ってしまうことをします。自分が持っている力のほんの何%かを発揮しただけで、その先をあきらめてしまう人がたくさんいます。あきらめた段階で、それだけの能力しか持たない人になります。

 

 負けることの本質を知らない人は、負けることで先に進めなくなってしまいます。しかし、人が生きていく上でのいろいろなことや、世の中の多くのことは負けても終わりにはなりません。あきらめたときに終わりになるものです。

 

 子どもたちは、いろいろなことを学ぶと同時に、いろいろな試験によって「学力」という名の自分の力を見ていきます。これは見方を間違えると、自分の力を見切ってしまうきっかけにもなりかねません。

 一度や二度、場合によっては過去のすべての試験の結果など関係ありません。大切なことは、今というこの時点から始まるこれからの生き方なのです。

 

 人はいつからでも変わることができます。いつからでも良くなることができます。自分の心の中に潜んでいる最大の敵、「自分の弱い心」に打ち勝つことができれば、自分だけでなく自分を取り巻く世界さえも変えていくことができるでしょう。迷わず進むことです。世の中は、進んだあとに分かることだらけです。

 

 子どもたちが歩んでいくこれからの長い人生には、いろいろな困難が待ち受けています。その困難にどう立ち向かうかは人それぞれですが、生きていく上で大切なことは、一度も失敗しないことではなく、倒れるごとに必ず起き上がる「心の在り方」を身に付けることといえるでしょう。

現実世界での充実感(H271026)

 学力についてもそうですが、子どもを大きく成長させるには、できるだけ幅広くたくさんのことを体験させることが大切です。自然に親しむこと、社会的なもの、スポーツや芸術、趣味にいたるまで、年齢的に早ければ早いほどよいものがたくさんあります。

 

 子どもは、いろいろなことを体験したり、いろいろな人と交流することで、「自分自身が生きている現実世界」を充実させていくことになります。

 また、目標に向かって努力することで得られる充実感や、困難を乗り越えたときの達成感などが、子どもの「生きる力」を育んでいきます。

 

 一方、今の子どもたちのすぐ近くには、「ゲームの世界」というバーチャルな充実感を手に入れることができる環境があります。現実の世界に充実感を見いだせない子どもほど、ゲームという仮想の世界にのめり込みやすくなります。

 

 しかし、子どもの成長を考えるのであれば、子どものゲームに歯止めをかけ、バーチャルな世界から外に引きずり出してやることが大切です。重症な子どもほど、そこから抜け出られなくなっているものですが、これは、誰かが手を差し伸べて救い出してあげるしかありません。

 

 最近のゲームはよくできています。感情移入をしやすいように工夫され、擬似的な達成感を得られるように作られています。この、よくできたバーチャル空間というものほど厄介なものはありません。子どもたちは、その中に現実より充実した時間を見つけてしまいます。

 

 ゲームというバーチャルな世界がもつ危険性として

〇操作できる危険

〇操作できる感情

〇操作できる環境

〇操作できる壁

 などがあります。

 

 現実とは、リセットできない人生と乗り越えるべき壁であって、リセット可能なゲームの世界でいくら英雄になっても、それは都合のいい妄想でしかありません。

 

 ゲームがもつバーチャルな充実感という魅力から抜け出すには、現実の世界を充実させることが大切です。子どもたちがまだ知らないこの現実の世界には、体験や探究すれば見つかる「面白いこと」がたくさんあります。

 子どもをバーチャルな世界に追い込まないためにも、現実の世界に充実感を見つけ出すきっかけを作ってあげることが大切といえるでしょう。

子どもの成長は「あいさつ」と「時間を守ること」から(H271018)

 子どもに身に付けさせたい基本的生活習慣の中で、最も大切なものとして、「あいさつ」と「時間を守ること」があります。これができない状態だと、子どもが自立に向かって成長することが難しくなります。

 

 逆に、この2つが身に付いていれば、人によってそのスピードに差はあるかもしれませんが、自分で成長することができるようになるものです。

 

 「あいさつ」は、好ましい人間関係を保つ上での基本であることはいうまでもなく、その行為に含まれていることには大切なものがたくさんあります。

 「あいさつ」は、最初に身に付けるべき社会的な行動であり、容易に習慣化できることです。あいさつすることで、自分と他者との間に良好な関係をつくり、自立に必要な「社会との関わり」を意識することになります。

 それは、自分だけでなく、家族や学校、社会という自分を取り巻く環境である「自分以外の存在」を大切にしようとする心でもあるわけです。

 

 また、子どもに何か問題が起きたときに、あいさつする習慣が身に付いていれば、そのことによって救われることもたくさんあります。

 子どもが抱える問題によっては、親から逃げていたいと思うときもあるでしょう。子どもが「親に認めてもらえない感」を持っていると、無口になったり引きこもり気味になったりするものですが、何気ないあいさつが氷を砕くきっかけとなります。

 

 朝の「おはよう」。食事のときの「いただきます」と「ごちそうさま」。出がけの「いってきます」。帰ったときの「ただいま」。寝るときの「おやすみ」。あたり前のような単純なあいさつが、実はとても大きな力を持っていたりするものです。

 

 次に、「時間を守ること」も大切です。子どもが自立に向かって成長していくには、自分で自分の時間を管理できることが必要です。

 「時間を守ること」は、時間管理の第一歩です。朝、ちゃんと一人で起きる。時間までに身支度をする。遅刻しないようにテキパキやる・・・。学校から帰っても、時間になったら勉強を始める。必要な睡眠時間をとる・・・。これらの生活習慣の基本は、時間を管理することから始まります。

 

 さらに、1日24時間、1年365日、限られた大切な時間を、何にどのように振り分けていくかが大きな問題でもあります。子どもには、「やりたいこと」や「やらなければならないこと」がたくさんあります。それを行うために、どのように時間計画を立てていくかは、子どもの生き方を決める重要な要素といえます。

 

 勉強でも何でも、人に言われなくても自分で行動できるようになるためには、自分で自分の時間を管理できる能力を身に付けることが大切です。そのようにして、自分の時間を主体的に活かすようになったとき、子どもは自立への道を歩み始めることになります。

 

 そして、時間が限られたものであることを知れば、時間を真剣に使うという生き方、さらには今を大切に生きることの重さを見つけることになるはずです。

努力もいいが工夫も大切(H271013)

 今の教育のよりどころの一つとして、「努力することの大切さ」があります。子どもたちに、「今の君たちにとって大切なことは何ですか?」と尋ねると、多くの子どもたちから「努力すること」という答えが返ってきます。

 

 将来の夢に向かって努力するということは、子どもたちによりよい生き方を示す教育界においては、この上ない価値を持っています。

 

 しかし、この「努力」というものを盲目的に信じることにも疑問の余地があります。努力がすべてを解決するかというと、そうでない場合もたくさんあります。

 努力して勉強すれば誰でも難関大学に入れるかといえば、そうではありません。世の中には、努力しても実現不可能なことや報われないことがたくさんあります。

 それをあきらめるかどうかは本人の問題です。ただ、努力の仕方を見直すことは常に心がけておきたいことです。

 

 単純に、勉強ひとつとって考えてみても、

 (1)努力する対象は正しいのか

 (2)努力する方法は正しいのか

 (3)努力よりも工夫が必要なのではないか

 このような視点で見てみる必要があります。

 

 物事を成し遂げるには、努力という精神論も大切ですが、努力の前提となる部分が大切です。

 努力という言葉には、苦しいことや辛いことも我慢して一途に行動するという感覚があります。目標を達成するためには、そうせざるを得ないことも多いわけですが、その困難さの感覚を変えることができれば、より効果的に目標に近づくことができます。

 

 先ほどの勉強の場合でも、その勉強のより深いところを目指し、

 (1)そのことを好きになる

 (2)そうすることが楽しい

 (3)そこに価値を見つける

 このような感覚を持つことができれば、同じことをするにしても、その結果はおのずと変わってくるものです。

 

 学びの基本は、興味関心のあるものを徹底的に深めていくことにあります。いわゆる探究型の学習です。子どもには好奇心や未知のものを知りたいという欲求が備わっていますので、そのような学びへの意欲が最も効果的に学力を高めることにつながります。

 

 そして、まだ自分の知っている世界が狭いのであれば、世の中の広さや学びの面白さを知ることも大切です。自分が知らないことの中に、面白いものがたくさんあるものです。知識を広げないことは、世の中の面白いことを見切ることと同じです。

 

 学びには、広さと深さが大切です。そして、この深さを目指すことによって本当の学びの楽しさを見つけることができます。

 努力も大切ですが、いかに興味・関心・好奇心を掘り起し、それを持続するかが大切といえるでしょう。もし、そのような意欲がなかなか沸いてこないのであれば、学び方の工夫をしてみることも必要かもしれません。

得意分野はどのようにして生まれるか(H271005)

 寝食を忘れて夢中になって取り組む時間が、興味と関心、面白さの体験を通して「好きな分野」を開拓していくことになります。そこから、得意分野が生まれてくるといっていいでしょう。

 

 この「夢中になって取り組む時間」とは、自分の好奇心や探究心を全力で発揮している時間です。得意分野を持つ人のほとんどが、その分野について「集中して勉強した時間」を体験しているものです。

 

 得意分野をつくる学習方法としては、物事の結果を覚えるだけでなく、その底辺に横たわる仕組みを理解することが大切です。数学や理科などの自然科学はもとより、国語や社会、英語にいたるまで,その底辺にある仕組みを理解することで、考える力が身に付き、課題解決能力が養われていきます。

 単に何かを記憶する場合であっても、その仕組みを理解し、より関連付けがなされた事柄のほうが記憶しやすいものです。

 

 数学を得意とする人が30分で終わらせることのできる問題でも、数学を苦手とする人は2時間かかってしまいます。これは、数学などの勉強だけではありません。スポーツや趣味の世界、将来の仕事についてもいえることです。

 何でもそうですが、どんな分野においても最初から得意な人はいないわけです。最初はうまくいかなくても、あきらめずに取り組んでいくうちに、次第にうまくできるようになるものです。

 

 勉強が苦手な人にとって大切なことは、集中して取り組む学習の量を確保することです。量を確保することは大変なことですが、苦しくてもあきらめなければ、必ず質が向上してきます。最初は2時間かかっていたものも、半年後には1時間でできるようになり、1年後には30分でできるようになったりします。

 そのときには、すでに苦手分野ではなくなっています。それどころか、ひょっとすると得意分野になっているかもしれません。

 

 まずは、きっかけをつくることです。苦手分野のどこに風穴を空けるかが問題です。例えば先ほどの数学でいえば、「図形だけは得意」さらには「三角形だけは負けない」など、ひとつの分野を切り崩しに行きます。そこで身に付けた学び方や解ける喜び、そして自信。これらが次のステップへと導いてくれます。

 

 以前、とある進学校で勉強のほとんどが苦手という生徒がいました。理解力が乏しく、すべてが分からない状態になっていました。得意なものといえば、食べることと寝ることぐらいでしたが、1年後に大学進学を控え何とかしなければならないと自覚しました。

 

 彼が行った方法というのは、照準を英語に合わせ、英単語や英熟語をかたっぱしから覚えることでした。ただひたすらに覚える。朝から晩までそれだけでした。理解力がどうのこうのというレベルではありませんでした。まずは、量によってカバーしようとしたわけです。

 

 逆説的ではありますが、単に覚えるという作業の繰り返しによって、そこに何らかの仕組みや関連性を見つけ出すことができたのだと思います。それと同時に、覚えた単語の数が結果となって達成感を生み出してきたともいえます。覚えることが楽しくなってくるという感覚です。

 

 半年後には、今まで読めなかった英文が読めるようになり、英語が分かるようになってきました。英語だけは大丈夫という自信がついたせいか、その効果は他の教科にも波及し、結果本人が志望する難関私大に合格してしまいました。「まさか」とも思いましたが、「やればできる」ということを目の当たりにした出来事でした。

 

 できるようになる「きっかけ」というのは、理屈ではないのかもしれません。その人にはその人なりの方法があるのだと思います。

 しかし、量によって質が変わっていくという事実だけは、誰にも当てはまることだといえるでしょう。

努力の種類(H270928)

 努力の大切さは誰もが認めるところです。人の成長という視点で見れば、結果よりもその努力の過程こそ大切だと考える人も多いはずです。

 また、親としても、子どもには勉強してほしい、将来の夢や希望に向かって努力してほしいと願うものです。

 

 では、子どもを努力に向かわせるものとは何か、努力を誘発する方法について見てみましょう。努力の種類やレベルには、大きく分けて、次の2つがあります。

(1)外部誘発型努力

(2)内部誘発型努力

 

 外部誘発型努力とは、外側からの刺激によって努力を誘発する方法です。例えば、「怒られて勉強する」とか「人に言われて勉強する」というレベルです。また、よくありそうなのが、「テストでいい成績をとったら、欲しがっていたゲームを買ってあげる」などの誘いによって努力させることなどもそうです。

 

 この外部誘発型努力には、多くの弊害があります。

○目標の喪失

○価値の喪失

○自立性の喪失

 などがあげられます。

 

 例えば、先ほどのゲームをえさに勉強させるということは、何のために勉強するのか、本来の目標の喪失につながります。また、ゲームを手に入れることを目標としますと、勉強することよりゲームを手に入れることのほうが価値が上になってしまうため、価値の喪失が起こります。さらに、人から与えられないと何もできないという自立性の喪失を生み出します。

 

 一方、内部誘発型努力とは、自分の心の中から湧き上がってくる意欲によるものです。やる気や勇気、チャレンジ精神なども含まれます。本来、人の行動はこのような意欲によって行われてこそ意味があり、その努力は人を成長に向かわせるとともに、人格形成にもつながります。

 

 では、この内部誘発型努力へ向かわせるものとは何でしょうか。心の中から湧き上がる意欲を引き出すには何が必要でしょうか。

 主なものをあげてみると、

○承認による自己肯定感

○人の役に立っているという貢献感

○自己実現に向けての目的意識

○「生きる」ことにつながる意味付けや価値付け

 などがあげられます。

 

 基本的には、すべて本人の気持ちの問題ということになりますが、親からの働きかけとしては、正しい承認によって、子どもの自己肯定感を醸成していくことができるとよいでしょう。

 また、意欲を生み出すきっかけとなるような体験や、ちょっとした達成感の積み重ねの機会を与えてあげることも大切です。

 

 いずれにしても、親にできることはそう多くはありません。親にできることといえば、多くのことができないことを自覚しつつ、欲張らずに、子どもの心が前を向くようなきっかけ作りと、自分で進もうとする子どもの背中を押してあげることぐらいかもしれません。

承認の方法(H270921)

 承認には、大きく分けて3つの方法があります。

(1)褒める

(2)勇気付ける

(3)感謝する

 

 最近流行の心理学者アドラーによれば、褒めるという行為は自立的な成長にとってはよくないとされています。しかし、日本人のもつ精神文化や意識構造を考えると、子どもの発達段階の途中においては、褒めることも重要な承認の方法だと思います。

 

 それぞれの方法を実際の言葉で表してみると、

(1)褒める・・・「素晴らしい。よく頑張ったね。」

(2)勇気付ける・「心配ない。大丈夫、できるよ。」

(3)感謝する・・「とても助かる。嬉しい。ありがとう。」

 などと表現されますが、いずれも肯定的な感情を相手に伝えることになります。

 

 人はこれらの言葉に安心感や充足感を感じることになりますが、一方で自分を認めてくれる人を大切にしたいという気持ちが芽生えます。

 承認するということは、共感する意識のもとで、相手の行動に共通の価値付けを行い、良好な人間関係をつくるための方法でもあります。

 

 では、子どもの何を承認するかを考えると、一番内側のコアの部分に「存在」そのものに対する承認があり、一番外側に「結果」に対する承認があります。その間に、思考や行動に対する承認があります。

 

 結果に対する承認は誰でもできます。例えば、テストで100点取ったときとか、運動会で一等賞になったときに、「よく頑張ったね。」と声をかけて。その結果を認めてあげることです。

 しかし、これは結果が良かったからできるわけで、いつもそうなるとは限りません。物事は思い通りにならないことのほうが多いわけです。

 

 ここで大切なことは、どのような状態でも行うことができる「存在に対する承認」です。「あなたがいてくれるだけで嬉しい」という感覚は愛情ともいえるでしょう。親は子育ての途中において、この存在への承認を繰り返し行ってきているものです。

 

 親の子に対する存在承認だけではありません。人の好き嫌いの感情を超えて、その人がそこにいることについて、その価値をちゃんと認めようとすることは、社会においてよりよい相互関係を築く上でとても大切な視点でもあります。

 結果や行動のレベルを超えて、互いの違いを認め、それぞれがそれぞれにお互いの存在を認め合うことができるようになれば、自分を含め自分を取り巻く集団や社会全体が成長していくことになります。

 「みんな違って、みんな素晴らしい」という視点を持つことは、差別や偏見、いじめのない社会を築き上げていく上でとても大切なことでもあるわけです。

 

 親として、子どもが望みどおりの結果を出したから褒める、結果が出ないから褒めないというものでもありません。ただし、叱咤激励するときは、子どもの「ありのまま」を認めつつ、その行為にのみ視点をおくことが大切です。

 子どもを育てるには、時に「叱る」ことも必要です。これは、「怒る」という感情をぶつけることではありません。どちらかといえば、「さとす」ことに近いといえます。

 一般に、この「叱る」ときに心がけておきたいこととして、「人(行為者)ではなくその行為そのものを叱る」ことが大切だといわれています。これは、叱っても人格を否定するわけではないということを明確にさせることでもあります。

 

 もし、子どもを叱るときに、存在承認も同時に行うことができれば、親の気持ちを子どもの心に届けやすくなります。どんなときも、深い愛情に裏づけされた行為こそ、子どもを成長させる一番の方法であることに違いはありません。

子どもを勉強に向かわせるもの(H270914)

 子どもが勉強に向かう要因として、大きく次の2つが考えられます。

(1)自己目標の達成

(2)承認欲求に基づく行動

 

 学校教育の中で重視しているものとして、キャリア教育という視点があります。それは、主に(1)の自己目標の達成を目指す取り組みといえます。将来における自己実現や社会との関係性、将来の職業まで見据えたキャリアアップを目標とするものです。

 それは、将来の夢や希望を手にするために努力することを根底に置き、大学進学を含めて国際教育や科学教育など多種多様な内容に及びます。

 

 学びの本質を考えると、このような自己目標の達成意欲に基づき勉強することが大切なのですが、明確な自己目標をもっている子どもは、必ずしもそう多くはありません。どちらかといえば、将来については漠然とした感覚でとらえている子どもがほとんどでしょう。

 ですから、子どもの発達段階にもよりますが、多くは将来の可能性の保持を目的としているのが普通です。とりあえず、何にでもなれるという可能性を失わないためにも勉強するわけです。

 

 一方、心理的なアプローチとして働いているのが、(2)の承認欲求に基づく行動としての勉強です。承認欲求とは、自分の存在や行為、気持ちを人に認めてもらいたいという欲求です。親に認められたい、友達に認められたい、先生に認められたい、社会で認められたいと思う気持ちであり、多かれ少なかれ必ず人の心の中に存在します。

 子どもは、勉強することで、あるいは良い成績を収めることで、自分の存在や能力を認めてもらいたいと思うわけで、これが子どもを勉強に向かわせる強い行動原理となります。

 

 子どもの自立のレベルにもよりますが、この承認欲求は自己目標の達成意欲以上に子どもを勉強に向かわせます。ですから、子どもを前向きな学習に取り組ませるには、子どもの学習行為をしっかりと承認してあげることがとても大切です。

 

 人間は社会的な動物であり、家庭や学校、職場といった集団において、自分の存在を認めてもらおうとします。そして、その中でよりよく生きるためには、自分と自分を取り巻く人々との関係付けの部分が必要となってきます。

 この関係付けを担っている本能的な働きとして承認欲求があります。他者を意識し、自分の存在を人に認めてもらおうとする欲求があるからこそ、他者との協調や社会的な営みが生まれてきます。そして、自分を認めてくれる集団こそ、居心地のいい集団ということになります。

 

 さらにいえば、承認欲求があるからこそ人は成長するのだとも考えられます。それは、社会の中で自分がどう在りたいのかという意識のもとで、自分自身を成長させる原動力にもなるからです。

 

 承認欲求は人間が持つ本能的な欲求ですから、基本的にそこから逃れることはできません。この承認欲求をどのレベルで実現していくかが、人それぞれの生き方ということになるでしょう。

伝えるということ(H270907)

 人にものを伝えるときには、自分のことを棚に上げて話さなければならないときがあります。人は何かを語るとき、「じゃあ自分はどうなんだ」という問いかけに身をさらすことになりますが、それに臆していると何も話せなくなってしまいます。

 

 逆に、自分ではできなかったからこそ、失敗という経験から学んだことやそこに含まれる大切なことを人には伝えていこうと思うわけです。

 

 たとえ自分にできなかったことであっても、人が生きていく上で価値があると思えることであれば、それを人に伝えることが大切です。それは、ある意味では、自分の過去の失敗を乗り越えることにもつながります。

 

 子育てにしても教育にしても、親や教師が、よりよい方法を見つけるには時間がかかります。気付いたときには、すでに自分は歳をとり、子どもは大きくなり、今までの経験から学んだことを再び使える時期は過ぎています。

 

 教育とか「人が育つ」ということは長い時間の中で行われることです。短時間で結果が出ることではありません。目先の成績や大学入試のみを考えるのであれば、定められた期間というものを意識せざるを得ませんが、将来、子どもが自立した幸せな人生を歩む力を身に付けるには、別の視点が必要になります。

 それには、10年20年という長い目で考え、場合によっては一生をかけて見いだしていくものになるかもしれません。

 

 私たちは、人を育てる上で大切なものがそこにあると思うのであれば、自分の過去の経験や考察、自分では成し得なかった方法、気付くのが遅かったと反省することまで含めて、次代を担う人々に伝えていくことが大切です。


 世の中には、伝えてこそ価値があるというものがたくさんあります。ある意味、教育とは、そのような形での価値の創造ともいえるかもしれません。

やってみなければ分からない(H270828)

 子どもが知っている世界は非常に狭い世界です。それは、知識面だけでなく、自分自身に向かう精神面においてもいえることです。

 学びや経験は世界を広げてくれます。子どもにとって、世の中には、まだ知らないことが山ほどあり、その中には面白いことや価値あることがたくさんあります。学ばずして、そのようなものと出会わないことは大きな損失ともいえます。

 

 苦手意識のほとんどは、食わず嫌いと同じことが多いものです。実際やってみると、いままで発揮されなかった能力が芽を出すことをあるわけです。

 リーダーシップやプレゼンテーション能力なども同様です。自分には、そんな能力がないと思っている人が、実は人並み以上の才能を持っていたりするものです。ただ、機会がないために、自分で自分の能力に気付かないでいるだけなのです。

 

 「立場が人を作る」ということがよくいわれます。立場というのは、やらざるを得ないという義務感から、好むと好まざるとにかかわらず、強制的に行動を強いられます。

 その結果、自分でも気付かないうちに、その立場に必要な能力を発揮したり、眠っていた才能に磨きをかけたりするわけです。

 

 何事もやってみなければ分かりません。やってみたら意外と簡単だったとか、思った以上に面白かったなどはよくある話です。中には、やってみたけどやっぱり苦手だったというものもあるでしょう。

 しかし、結果の良し悪しは大きな問題ではありません。もともと、やらなければ何も見つからないわけですから、何事も最初の一歩を踏み出す勇気を持つことが大切です。

 

 子どもたちが持っている可能性は無限です。控えめにいっても200%といえるでしょう。これは、子どもたちは、その意欲しだいで今考えている以上のことができるということです。

 

 自分の将来も、自分を取り巻く環境も、はたまたこの世界の未来でさえ、全ては一歩を踏み出す勇気から始まります。「未来を創る力」ともいえる好奇心や挑戦する心こそ、子どもたちが持っている最大の力といえます。

 そして、これからの世の中を生きていく子どもたちにとって、一番大切なことは、今というこの時に新しいものを求めて、とにかく何でもやってみるという前向きな姿勢なのです。

まずは行動すること(H270821)

 人はあれこれ悩みます。しかし、悩んでいる暇があったら一つでもやってみることが大切です。自分ひとりの行動など、周りから見ればたいしたことではないかもしれませんが、その人にとっては行動したというそのことが重要な意味を持ちます。

 

 行動しないで悩んでいることと、行動して悩んでいることでは、何もしないで悩んでいることのほうがはるかに多いものです。その中には、やってみれば意外と簡単なことがたくさんあります。要は、気持ちの問題とも言えます。

 

 時として落ち込むことは誰にもありますが、その実は、まだなにも行動もしていないのに、落ち込んでいることが多いものです。しかし、その落ち込みは「幻」です。あるように思っているだけで、実はありません。

 

 頭の中の「幻」にこだわりすぎて、行動しないでいることは、「機会喪失」という大きな損失をもたらすことがあります。成果だけでなく、経験や勇気など、大切なものは行動してこそ手に入れることができます。

 これは、子どもだけでなく、親や教師、大人も同じといえるでしょう。行動しての失敗を恐れるよりも何もしないことのほうが、人生にとっては大きな失敗となるものです。

 

 人は、その人生を振り返ったとき、困難が多くてやれなかったと振り返ることもあるかもしれません。しかし、その実は、自分が本気になってやらなかっただけなのかもしれません。

 何もしないことは癖になるものです。楽を求めたらきりがなく、その結果は楽でないものしか待っていません。価値ある人生を見つけるには、まずは一歩踏み出す勇気を持つことが必要です。

 

 また、「他者からの評価」という結果ばかりにとらわれていると、行動を起こすことに自信がもてなくなります。自分がやりたいことの本質を見失わず、本当の自分の人生を大切に思うのであれば、「他者からの評価」などそれほど気にならないものです。

 

 人の能力のほとんどは、継続する意欲で表されます。努力できるというそれ自体が能力といえます。自分が本当にやりたいこと、心から大切にしたいことのために人生の貴重な時間を使うべきでしょう。

 そして、自信を持つためには、今できることをやるということです。夢や大きな目標のために、今できることは何なのかを考えて、そのための行動を習慣化させることが大切です。

 

 乗り越えるべき壁があれば、できないものにとらわれずに、できるものから片づけていけばいいのです。できないものに意識が向き過ぎると自信がなくなります。今できることに意識を傾け、「できることは何でもやってみる」という挑戦の仕方こそ大切といえるでしょう。

失敗や挫折との付き合い方(H270814)

 失敗から学ぶことは貴重であり、困難や逆境を乗り越えるからこそ成長が生まれるということはよくいわれることです。

 しかし、実際は、人は失敗や挫折をしないように生きています。現代に生きる多くの人が、自分の行動に保険をかけることをしています。それは、言い訳を考えておいたり、逃げ道を用意しておいたりすることといえます。

 

 自分の行動に保険をかけておくことは、決して悪いことではありませんし、何が起こるかわからない状況では、しごく当然のことといえます。

 自分を取り巻く不安定な環境や、心にわきあがる不安感は人の防衛本能をくすぐります。生きていくには、自分の立ち位置や自分の心を守ることも必要になるからです。

 

 世の中にはいろいろな人がいます。人の生き方も多種多様です。何事にも本気で取り組む人もいれば、そうでない人もいます。

 本気で取り組まないメリットは、挫折しないですむということです。逆に言えば、挫折するには本気で取り組むことが必要です。挫折の先に成長という前進を手に入れるには、全身全霊を傾ける強い意思の存在が欠かせません。

 

 今という時代をどのように生きるのかは各自の問題です。挫折を避け、困難を避けて生きる方法もあれば、失敗や挫折を覚悟の上で本気で取り組む生き方もあります。

 

 子どもの生き方についても同様です。自分の力や才能を伸ばしきれない子どももいれば、自分でも気が付かなかった能力を発揮する子どももいます。

 チャレンジ精神の大切さは、自分の中にまだ知らない自分をつくり上げていくことにあります。子どもにとって、本当の「自分」を生きるためには、困難や逆境の先にあるものを手に入れる強さが必要です。

 

 そして、幸いにも人は本気で取り組むからこそ充実感を得られるようにできています。全力で挑む快感を経験することは、その結果がどうであれ大きな成長へとつながっていくものです。

 

 新しいことに挑戦するためには、失敗することの不安を乗り越える必要があります。そのためには、絶対に失敗しないと考えるのではなく、「失敗することもあるし、失敗しても何とかなる」という状況を受け入れる余裕をもつことです。

 

 たとえ成し遂げることができなくでも、自分がそれを大切に思う気持ちだけは消えません。成し遂げられなくても、なお大切に思えてこそ、本当に大切なものといえます。

 そして、「それを手にすることができないときどうするか」を考えることが、そのものと正面から向き合うことになります。大切なことについて深く考えてこそ、それに向かう意欲が継続できるといえるでしょう。

勉強の基本は「一人でする」こと(H270807)

 基本的に、子どもの勉強には、学校の授業を通して行うものと、家庭学習として行うものがあります。

 

 学校での授業の形態には様々な形があり、その方法はいろいろな研究をもとに広く実践されています。

 通常の一斉授業だけでなく、少人数指導やティーム・ティーチングによる授業、それ以外にも、グループ学習やマンツーマンでの質問を中心とする学習など、学びの方法にはいろいろな形があります。

 

 学校での授業に関しては、近年、座学だけではなく、話し合いや発表という言語活動を重視した学びに視点が移ってきています。

 これは、コミュニケーションの基本が意思の伝達による相互理解にあるわけですから、言語活動を充実させることは、学校での学びの基本的要素といえます。

 また、最近では、アクティブ・ラーニングという視点で、主体的で協働的な学びの方法が重視されています。生徒が積極的に授業に参加し、互いに学びあう環境のもとで学習を進めていく方法は、集団の学びの力を向上させる有効な方法といえます。

 

 では、家庭学習においてはどうでしょうか。一人だと気分が乗らない人もいるでしょうし、誰かに教えてほしいと思う人もいるでしょう。一人で勉強することに慣れていない人は、集団でいることを好み、そこに安心感を得ることが多いものです。

 

 しかし、このような学びの状況にばかり身を置きますと、学習行動そのものが他者依存の形から抜け出られなくなってしまいます。本来、身に付けるべき自立探究型の学習が、より遠いものになってしまいます。

 

 たまには、友達と一緒に相談しながら勉強することもいいでしょう。塾に行って、みんなと一緒に励ましあうのもいいと思います。学びにおける視野を広げるには、グループで学習したり、友達と相談したりすることにも効果があります。

 

 しかし、勉強の基本は「一人でする」ことにあります。思考力を養い、学びを深めていくには、どうしても一人で考える時間を十分に取る必要があります。

 単純に、大学入試問題を例にとってみても、いわゆる難問と呼ばれる問題を解けるようになるためには、一人で行う自立探究型の学習に十分な時間をかける必要があります。問題の表面をなぞるだけでなく、その問題の本質に迫る思考力を養う必要があります。

 そのためには、知識の広さだけではなく、自分自身で思考を深めることが大切であり、集団での学びよりも個人レベルでの学びの方が効果的なところがあります。

 

 基本的に、勉強というのは孤独なものです。分からないところがあったら、すぐに先生や友達に相談して解決するというやり方は、必ずしもいい方法とはいえません。

 深い思考力を身に付けるためには、苦しくても自分で調べて自分で考えるということを繰り返すことが必要です。

 

 家庭での学習の基本は自学自習にあります。勉強というのは、自分で自分の思考と向き合い、自分の考えを発展させていくことが大切です。友達と一緒に楽しく学ぶのは、あくまでもおまけのようなものと考えていいでしょう。

自分をつくるための学び(H270731)

 子どものうちに、将来の仕事について強い願望を持ち、自分の進むべき進路を決めている人も少なからずいます。

 例えば、医師や教師というのは、子どもたちにとって分かりやすい職業ですし、親の意向とも合致しやすいところがあります。安定した収入は魅力ですし、何より子どもにとっては人の役に立っている感覚がすぐに分かるので、将来の希望として必ず出てくる職業です。

 

 しかし、それは自分が知っている範囲での話であって、子どもが成長するにしたがって世界が広がり、価値観も変われば興味を示す分野も変わってきます。

 もちろん、目標を早めに設定して、それに向かって努力を重ねることは素晴らしいことですし、子どもの進路を考えたときには、そうありたいものなのですが、実際なかなかそうはいかないのが普通です。

 

 将来の夢や自分に適する職業というのは、成長とともに変わっていくものです。どちらかというと変わるのが普通であり、さらにいえば夢は一つである必要もありません。子どもが、その長い人生を歩んでいく過程において、取捨選択するものはたくさんありますが、夢や希望というのもその類に含まれます。

 

 基本的な進路指導のあり方として、自分のやりたいことを見つけることから始まり、そのための方法として、どのような大学に行ってどのようなことを学び、どのようなスキルを身に付けるのかを決めていくのが一般的です。

 しかし、実は、このようなレールに乗れない子どももたくさんいます。最初の「自分のやりたいこと」が見つからない子どもです。

 

 子どもの発達段階にもよりますが、今はこのような子どもがたくさんいます。進路指導は「自分探し」とよく言われますが、探したところで見つからないのが実は普通なことなのです。

 

 結論から言えば、大切なことは、「自分探し」ではなく「自分をつくる」という学びの方法です。学びにおいて大切なことは、「(1)体験:いろいろやってみる」ということと「(2)探究:自分で調べて深く考える」ということです。

 学ぶということは、いろいろなことに触れ、いろいろなことをやってみて、自分自身を成長させる機会を得るということなのです。

 

 世の中には、やってみなければ分からないものがたくさんあります。最初は嫌いだったピーマンも、料理の仕方で次第に好物になっていったりするものです。ちょっと大変でも、頑張ってみた先に自分の得意なものや好きなものが見つかることはよくある話です。

 

 そして、大切なことは、「学ぶことをやめたら見つからない」という事実です。子どもたちにとって学ぶということは生きることに近いものといえます。

 

 また、自分の頭で深く考えるということも重要です。勉強以外にも物事を深くよく考えることが、子どもたちの成長にとって大切です。

 「生きる」とは何なのか。「自分」とは何なのか。「勉強」とは何なのか。「社会」とは何なのか。人に教わることもたくさんありますが、自分自身の頭で深く考えることが、「自分をつくる」上でとても大切です。

 

 この「深く考える」という行為は、人間のみがする行為です。他の動物は、本能や感情によってのみ行動します。人間が人間であるためには、この「深く考える」ことによるものが大きいといえます。

 

 子どもたちが、その生活の中に予想外のことが生じ、困難や逆境に出会った場合に、自分の頭でよく考え、自分でその対応を見つけることはとても大切なことです。

 親や教師が一方的に解決策を示したり、困難を取り払ったりしては、子どもの成長は期待できません。親や教師は、子どもが自分で課題を解決するのを見守るか、課題に立ち向かう子どもをサポートする程度にとどめておく必要があります。

 

 子どもは、何か問題があったとき、自分の力で何とかしようといろいろと考えることになるでしょう。親にとっては、それがまどろっこしく見えるかもしれませんが、最後まで子どもの主体性を大切にしてあげたいものです。

 もし、それがうまくいかなくても、自分の意思で行った行動は、その結果がどうあれ、必ず子ども自身を成長させることになるでしょう。

正しい経済感覚(H270727)

 世の中には、お金よりも大切なものがたくさんあります。しかし、お金も大切です。生活するにも、子どもを育てるにもお金がかかります。

 このお金に対しての正しい認識、正しい経済感覚を子どもに伝えることも必要なことです。

 

 親は子どもに勉強して欲しいと願っています。それは、自分を取り巻く世界のことを知り、その中で幸せに生きていくために、自分の能力を磨き、社会で生きる力を身に付けてほしいという願望であるといえます。

 ですから、親は子どもに、できるだけいい教育を受けさせたいと願っています。しかし、そのためには、それなりのお金がかかります。生活するにもお金がかかります。

 子どもには、「教育もお金も、生きていく上でとても大切なものである」ということを、しっかりと伝えておきたいものです。

 

 一般的に、個人と社会とは、その多くの部分を経済活動によってつながっています。お金というのは、個人と社会とを結びつける重要な役割を担っています。子どもに、自分と社会との関わりを考えさせるとき、この経済的な要素を無視することはできません。

 

 経済的な視点で考えれば、お金を得るための方法としては、働いて労働の対価として得る方法と、投資というリスクを負うことへの対価として得る方法があります。

 どちらも重要な経済活動といえますが、人は多くの時間を働くことに費やしているわけですから、どのように働くかは、生きていく上での大切な問題でもあります。

 

 無償のボランティアによる社会貢献も大切ですが、経済的な営みによってなされる社会貢献も、それ以上に大切です。自立した人間にとって、働くことは生きることと同じといえます。

 それは、何らかの社会的な価値を生み出していることであり、そこに喜びを感じることが生きることへの喜びにつながることにもなるからです。

 

 子どもが自立に向かって成長していくには、「働くことによって個人と社会がつながっている」という認識のもとでの正しい経済感覚を身に付けることが大切です。それは、世の中の仕組みを知ることであり、世界を知ることでもあります。

 そして、お金を得ることによって生じてくる「責任」こそ、人を成長させる大きな要素となります。

 

 また、働くことの意義を、お金を稼ぐこと以外に見いだすことは、とても大切なことです。社会に出れば、多くの時間を「働く」ということに費やすことになります。ですから、「お金を得るためだけに自分の大切な時間を切り売りしている」という感覚は好ましいものではありません。

 

 人は、限られた時間の中でその一生を過ごすことになります。その時間をどのように使うのかは、生きるということや働くということ、学ぶということの本質に迫るものといえます。

 そして、正しい経済感覚を身に付けることは、人の生き方を社会という大地に根付かせるために必要不可欠なことでもあるわけです。

価値を生み出す営み(H270717)

 これは、「生きる」ということに深くつながることだと思いますが、人の多くは価値あることの創造に向かって生きています。

 

 この場合の価値とは、

 (1)自分にとって価値あること

 (2)自分の周りの人にとって価値あること

 (3)社会にとって価値あること

などに分類できますが、それはとらえ方という意識の問題であり、その本質的なところはすべてつながっているといえます。

 

 例えば、人が生きていくには「働く」ということと無縁ではいられません。働くことはどういうことなのかを考えると、まず真っ先に生活に必要なお金を稼ぐということがあげられます。あるいは、将来の夢や目標のためかもしれません。いずれにしても、これは「自分にとって価値あること」です。

 さらに、それは家族への思いを背負っている場合もありますし、職場の仲間たちという「自分の周りの人」のためかも知れません。

 

 また、より広い視野で見れば、仕事というのは必ず何らかの形で社会と結びついています。缶コーヒーのCMではありませんが、世界は誰かの仕事でできているということです。

 それは、「働く」ということが「社会にとって価値あること」であり、そこには人の役に立っているという大切なことが含まれています。

 

 この、同じ「働く」という営みをどう見るかは、人それぞれの意識の問題であり、個人差があります。

 もし、働くことで、人の役に立っているという感覚や、人に喜んでもらっているいう感覚、さらには社会的な使命感や責任感を持つことができれば、そのことによって、人は大きく成長することができるでしょう。

 

 社会貢献の大切さがよく言われますが、社会にとって価値あることを生み出すことは、人の役に立っているという貢献感を自分の心の中に生み出すことでもあります。それは、「生きる」ということを深く考えたときに、切り離すことができない大切な感覚です。

 そして、人の役に立つことや、人に喜んでもらうことをするには、自分が一番得意なことや一番好きなことを見つけることが大切といえます。

 

 自分の得意なことや好きなことを仕事にできれば、これほど幸せなことはありません。働くことに喜びを見いだし、人の役に立っているという貢献感を感じることは、人生そのものを豊かにすることでしょう。

 

 しかし、逆にどんな仕事であっても、働くことの意義付けは自分で行うことができるものです。最初は辛く苦しくても、続けることで本質が見えてくる場合もあります。経験と継続が価値を生み出すこともよくあることです。

 

 実は、学ぶことも同じことがいえます。働くことでも学ぶことでも、そこに自分で価値を見いだし、その意義づけができるということが大切です。

 それこそが、子どもが自立に向けて成長していくための根幹であるといえるでしょう。

親の背中(H270713)

 子どもは親の背中を見て育つといいます。言葉も大切ですが、感情はもっと大切です。行動はさらに大切です。完璧な親などいません。親もいろいろな悩みを抱えて生きています。しかし、子どもは親の生き方を手本とします。世の中をどのように生きるかは親から学びます。それは、ほとんどの哺乳類がそうであるのと同じです。

 

 子どもに示すべきは、悩みや不安、苦労を抱え込みながらも前向きに生きている親の姿です。経済的な裕福さや社会的な地位の高さは関係ありません。大切なことは、生きることをどう考え、どのような生き方を見せるかということです。

 そして、何より、親自身が幸せになり、生きることを喜び、逆境に耐え、困難を乗り越える努力をすることが大切です。それこそが、子どもにとって最良の教育環境といえるでしょう。

 

 また、子どもは、父親と母親の人間関係から、人と人との関係を学びます。よく、「子どもの前では夫婦喧嘩をしてはいけない」といわれますが、理由はどうあれ、相手をののしり合う姿は子どもの心を深く傷つけます。

 さらに、「お父さんのようになってはいけません。」とか、「お母さんはだめだ。」とかの言葉を子どもに言うことは、手本にならない親に育てられていると、子どもに感じさせることになります。そうなると、子どもは自分の家庭環境や素直に生きることに自信をなくしてしまいます。

 

 「どうにでもなれ」という投げやりな感情を子どもの心に芽生えさせてはいけません。子どもは、自分が生きている環境を引き受けるだけで精一杯なときがあります。学校での出来事、友達関係、勉強や成績のこと、部活動・・・。子どもは子どもなりに、悩みながらも一生懸命生きているものです。

 

 家族という家庭環境は、子どもにとって最も大切な教育環境です。それがいかに大切かはいうまでもありません。夫婦間の問題は、「1:1」という個人相互レベルでの問題ですが、子どもという存在を考えたとき、それは「1:多」という、より社会的な要素を含むものとなってきます。

 

 親子は血縁ですが、夫婦は血縁ではありません。血縁でない夫婦の関係こそ大切です。この二人の協力があって家族はうまく成り立ちます。

 そして、何よりこの「認め合い、協力しあっている姿」こそ、子育てによい影響を与えます。

 「お父さんもお母さんも、お互いのために頑張っている。家族のために頑張っている。」

 「誰かのために頑張るってことは、大切なことなんだ。」

 子どもは、親が協力し合って生きている姿から、人間関係のあり方を学んでいきます。

 

 親は今まで一生懸命に生きてきました。どんな親も、今まで歩んできた人生の一生懸命さに自信をもつことができるはずです。境遇の違いこそあれ、今の自分の在り方に価値を見いだしているものです。

 

 もし、そうでなくても、これからの子育ての中で子どもと一緒に成長すればいいだけです。自分の背中は子どもにどのように見えるのか。子育ての時期を迎え、親としても、これからの自分の在り方や生き方を深く考えてみることが大切な時期になってきたといえるでしょう。

 

 そして、余計なことかもしれませんが、夫婦喧嘩は、子どもが見ていないところで、思う存分やることが大切です。

認められているという安心感(H270706)

 人には誰でも成長したいという欲求が備わっています。成長するには、今の自分や今の環境という現状を打ち破って、新たなことに挑戦することが必要になる場合もあるでしょう。

 しかし、そのことによって、自分の安全が著しく脅かされるのであれば、成長への欲求は抑えられてしまいます。安全欲求は、生理的欲求の次にくる本能的な欲求であるからです。

 ですから、子どもが成長するためには、生きていく上の安全を確保してあげることが必要です。

 

 安全が確保されて、はじめて子どもは心置きなく成長することができます。親が子どもを変えようとしなくても、愛情をもって子どもの存在を十分に認めてあげるだけで、子どもは自分で成長していく力を持っています。

 子どもが成長するには、心の居場所が必要です。心の安らぎが得られてこそ、成長への行動を起こすことができます。「自分はここで認められている」という存在の安心感こそ、子どもが成長するための土台となります。

 

 思春期の子どもが反抗するとき、その心の内側には自分を認めてほしいという承認欲求があります。親として、このときの対応の仕方には難しさを感じることもあると思います。

 しかし、この反抗期という苦い経験の中で、子どもは「どんなときにも自分は見捨てられない」という安心感を心の中に根付かせていきます。

 親が、反抗する子どもに嫌気がさし、力ずくで子どもをねじ伏せようとすれば、子どもは自分の存在を認めてもらえない不安に追い込まれます。親としては、この点をよく理解して反抗期の子どもと向かい合うことが大切でしょう。

 

 自分の存在に対する安心感があれば、子どもは自分の力で成長しようとします。しかし、何でも子どもの思うとおりにしてあげるということではありません。子どもを甘やかし、子どものわがままに流されていては、親も子どももけじめを失ってしまいます。

 

 甘やかすことは、子どもを大切に思う心からそうするのではなく、自分が嫌われたくないという身勝手な不安や、子どもに対する無関心や無責任から生まれてくるものです。それは、本当の愛情とはかけ離れたものといえるでしょう。

 

 親は親であり、子どもは子どもです。同じ立場にいることはできませんし、対等であるわけにもいきません。子どもの行動の責任は親にあります。親が子どもの成長を考え、その将来を大切に思うのであれば、目の前の子どもの行動をしっかりと受け止め、厳しさと愛情を持って向き合うことが必要でしょう。

 

 そして、どんなときにも何があっても決して見捨てない、という親の思いを伝えることが大切です。特に、反抗期の子どもは自分の感情を抑えられずにいるものです。後になって振り返れば、自分の言動に非があることが分かるものですが、そのときはどうしようもない感情に支配されていることが多いものです。

 親としては、そのような子どもの感情に振り回されることなく、表面的に反抗する子どもの内側に「存在への安心感」を根付かせることが大切でしょう。

 

 反抗期の子どもに対峙するには、親としての人間力の全てで向き合うことが必要になる場合もあるかも知れません。

 しかし、子どもにとって何が大切なのかをよく考えるとともに、親として自分の背中に自信を持って生きていけば、子どもはそんな親の思いを大切にしようとするでしょう。子どもが大きく育つためには、親もまた大きくなる必要があるといえます。

温室づくりという落とし穴(H270629)

 親であれば、自分の子どもは何よりかわいいものです。そして、子どものこれからの人生や、子どもが歩んでいく先々のことをいつも心配しているものです。

 子どもには、できるだけ苦労をさせたくないと思うのが普通の親であり、子どもの進む道に障害物があれば、それを取り除いてあげようと思うのが親心というものでしょう。

 

 しかし、子どもの人生を生きるのは子ども自身であり、いずれは親の力を借りずに一人で生きていかなければなりません。子どもがこれから歩んでいく長い道のりにおいて、その途中には逆境や大きな壁が待ち受けていることもあるでしょう。

 大人である親が、過去にそれらを乗り越えてきたように、子どももいずれ自分の力で乗り越えていかなければなりません。そのためには、いわゆる「生きる力」を身に付けていくことが必要になります。

 

 子どもの「生きる力」を養うには、目先の利にとらわれることなく、子どもの成長を長い目で見て、何が本当に大切なことなのかをよく見抜く必要があります。近視眼的な見方は、子どもの成長にとって大きな間違いのもととなります。

 

 よくある親の間違いの代表が「温室づくり」と呼ばれるものです。子どもの心を成長させるのではなく、環境を変えようとする行為です。いわゆる過保護というものですが、問題なのは、子どものことを考えるあまり、それが子どものためだと勘違いしてしまうところにあります。

 親が自分の子どもの「目先の利」だけにとらわれると、無意識のうちに「温室づくり」を行い、子どもが成長する機会を奪ってしまう場合があります。

 それは、子どもの成長を長い目で考えた場合、大きな落とし穴と呼べるかも知れません。

 

 子育てにおいて、知らずと行いやすい間違いとして、次のようなものがあげられます。

〇子どもに楽なことしか与えないこと

〇子どもの困難や障害を取り払ってしまうこと

〇子どもの選択を奪ってしまうこと

〇子どもの思考を止めてしまうこと

〇子どもの行動をとめてしまうこと

 

 これらによって、子どもを取り巻く環境は楽なものとなり、それによって親は安易な満足感を得ることができるかも知れません。

 しかし、そのような親の行為は、大切な自分の子どもを、自分で選択や判断ができない子どもにしてしまうかもしれません。

 そして、そのような子どもは、楽な道しか求めない無気力で無感動な子どもになりがちです。

 

 成長できない子どもというのは、悪いことをしたり、人に迷惑をかけたりする子どもではありません。成長できない子どもとは、自分の意思で行動できない子どもであり、選択や判断を人に任せてしまう子どもなのです。

 

 人は、内側からしか変わることができません。内側の心が成長するには、自分の力で壁を乗り越えることや、努力によって困難な状況を克服する経験が必要となります。自分で考え、自分で行動し、心の奥底に通じる何かを得たときに、人は大きく変わることができるものです。

 そして、無気力で無感動な子どもほど、その能力が失われていることが多いといえるでしょう。

 

 人が成長するには、自分の判断による選択とそれに伴う悩みや苦労、努力や忍耐によってこそ得られる達成感、逆境を自分の力で乗り越えたときの感動、その過程で得られる充実感などがどうしても必要となります。

 

 「愛情を持って不便、不自由、不親切を与える」とは、松下政経塾の塾頭の言葉ですが、子どもの成長を促す環境を考えてみれば、あながち間違いではなさそうです。

自立探究型の学びへ(H270624)

 勉強というのは、人に言われてやっているようではだめであって、自分からやりたいと思うようになって、はじめて本当の勉強が始まるといえます。

 子どもにとっては、宿題やテストの勉強も大切ですが、「学びたい、知りたい」という自分の心の中から沸いてくる好奇心や探究心こそ大切にしたいものです。

 

 子どもには、未知のものを知りたいという本質的な学びの欲求が備わっています。さらには、それを自分の力で見つけたいという欲求もあります。

 この欲求が強い子どもは、自分が問題を解き終わっていないうちに、教師から答えを示されることを嫌がります。特に、数学などではこの傾向は顕著に現れます。

 

 人から教わるのではなく、自分の力で解きたいという強い思いは、正しい学びの方向を向いているといえます。日々の学習の中で、そのような場面に出会ったならば、その意欲こそ大切にしてあげるべきでしょう。

 

 学びの形態には、いくつかの発達段階があります。

〇第1段階・・・反復練習等を用いた知識の定着を目指す習得型学習

〇第2段階・・・思考力を付けるための発展問題による課題型学習

〇第3段階・・・自分で学びを深めていく自立探究型学習

 

 これらは、別々にとらえるのではなく、学びの内容に応じて使い分けていくことになります。中でも大切なことは、第3段階の自立探究型学習を、できるだけ多くの学びの分野に取り入れていくことです。

 

 特に、思考力を必要とする学びにおいては、いかに早くこの自立探求型の学習に導いていくかが鍵となります。自立探究型の逆は、他者依存習得型です。人に頼って勉強しているうちは本当の学力を身に付けることはできません。

 それは、子どもにとって、勉強の方法だけでなく、生き方そのものといえるものです。子どもが、自立に向かって成長していくには、この自立探究型の学びがとても大切なこととなります。

 

 自らの意欲で学びに向かえば、小さな努力でも世界は変わってきます。学びや勉強というのは、山を登るのと同じです。頂上まで上らなければ、広々とした景色を見ることができないかというとそうではありません。地上から100m登っただけでも、見える景色は違って見えます。

 

 その違った景色を楽しみながら、マイペースで登っていくことが、勉強という名の山登りといえるでしょう。

陥ってはいけない完璧主義(H270622)

 教育や人を育てるということとかみ合わない言葉が完璧という言葉です。完璧な人間がいないように、完璧な方法もなければ、さらには完璧な結果に大きな意味もありません。40人の生徒を受け持つ教師は、40人全ての生徒が宿題をきっちり提出することを望みますし、親は子どもに全ての宿題を終わらせることを望みます。

 

 しかし、それがなされたとしても、それはかりそめの完璧でしかありません。学びの本質を見つめたとき、それらはすべて過程でしかありません。完璧というのは、ある範囲の中での到達であり、学ぶべきことの広さや深さを考えれば完璧にはあまり意味がありません。

 

 それどころか、この「完璧であること」にとらわれ過ぎると、大きな弊害をもたらす場合があります。教師でなくても分かると思いますが、宿題を出したとき、40人中の36人の提出ならば容易にできます。ところが、40人全員の提出を求めるのであれば、最後の一人の提出にそれまでの倍のエネルギーを費やすことになります。これをやると教師が疲れ果てるばかりか、怒られ叱られながらやらされる生徒にとってもいいことはありません。

 最後まで宿題を出さない生徒には、その生徒なりの理由があるのです。その背景の個人差を考慮せず一律に完璧な提出を求めるのは、労多くして功少なしの見本のようなものです。手に入るのは、将来の苦い思い出しかありません。

 

 一方、親が子どもに完璧な宿題の実行を求めることにも隠れた問題が潜みます。授業や宿題のレベルに能力が追いついている場合には、完璧に宿題を終わらせることもできるでしょう。それは、気持ちの良いことであり、明日に対して不安がない状態を確保します。逆に宿題を終わらせないと、先生に怒られるのではないか、成績に響くのではないか、などの不安が伴います。

 

 子どもたちが成長するに従って、学ぶ内容も難しくなります。分からないところもたくさん出てくるはずです。しかし、分からないところがあるから学問なのです。勉強だけでなく世の中のいろいろなことが分からないことだらけでしょう。子どもたちは、この「分からない」という状態に慣れる必要があります。さらに言えば、それがもたらす不安感や未達成感を許容できる「幅の広さ」も必要です。

 

 実は、幼い頃からこの不安のない状態にしか身を置いたことのない子どもは、不安に対する耐性が弱くなります。親に指示されながら完璧に宿題をこなしてきた結果、分からない自分や解けない自分を認めることができなくなります。宿題を終わらすことのできない不安が学びに対する不安となります。

 本当は能力の高い子どもなのに、完璧という魔境で育ってきた結果、不安に耐え切れず不登校になってしまう子どもが進学校にはたくさんいます。

 

 子どもは、たまには宿題をサボるぐらいがちょうどいいのです。先生に怒られたって大したことではありません。それぐらいで成績が下がることはありませんが、たとえ下がったとしても、その成績そのものがそんなに大きな意味を持つものではありません。


 それよりも、「完璧じゃなくても大丈夫。」「やるだけやって、できないところは飛ばしておいても何とかなるだろう。」くらいの感覚が大切です。これがないとより大切なこと、より大きなことができなくなります。無理をせず持続可能な程度がちょうどいいのです。

ありのままでは生きられない(H270615)

 子どものありのままの姿を認めることは大切なことです。しかし、子どもはありのままの自分を生きているわけではありません。「アナと雪の女王」がヒットしたのは、あの主題歌によるところが大きいといわれていますが、視点を変えれば、この映画は、「ありのまま」に生きることの難しさや、それ以上に大切なものがあることを表現しているといえます。

 

 人は、家族や学校、職場も含めて、社会という中でお互いに何らかの関係を築いて生きています。自分以外の人と共存しなければならない社会であるからこそ、ありのままの自分でいることを制限されるのはやむを得ないといえます。誰もが好き勝手なことをやっていては、学校も社会も無法地帯となってしまいます。

 

 社会では、いろいろな価値観をもつ多くの人が生きています。この「社会」が健全なものとして成り立つためには秩序が必要であり、個人の行動が制約されるのは当然のことといえます。

 そして、子どもたちの心に形成されていく「自己」というものは、この社会性のもとで培われていくものです。

 

 社会的なルールやマナー、礼儀や他者を思いやる気持ちなどは、社会で生きていく上でとても大切なことです。それは、自分の周りの人のためだけでなく、その中で生きている自分のためでもあるわけです。

 自分の欲望に身を任せ、衝動や感情に支配された「ありのまま」の状態では、社会に適応できないばかりか、そのようにして手に入れた自由は、自分にとっても大きな価値を持つものにはなり得ません。

 「自由」とは、自由にならない社会に生きているからこそ価値があるといえます。砂漠の真ん中でひとり自由を叫んでみても、それは価値のある自由とはいえないでしょう。

 

 しかし、その社会性によって制限されている自分の在り方に、何か本当の自分ではないように感じてしまう人が多いわけです。それは、単純に「ありのままの自分」でいることに憧れて、そうであることが素晴らしいことのように勘違いしているだけといえます。

 

 世の中には、ありのままに生きているように見える人もいます。しかし、そのような人の多くは、自分の「ありのまま」を少しでも表そうと、普通の人以上に社会的なつながりや意味づけを大切にしています。その本質のところを見ないと、「ありのまま」の表面だけを追うことになってしまいます。

 

 親も子どもも「ありのまま」に生きることはできません。子どもは子どもなりに、悩みながら生きています。いろいろな問題を起こすこともあるでしょう。今の境遇を嘆きたくなることもあるはずです。

 しかし、親がそのようにして生きている子どもの「ありのまま」を認めてあげることは大切なことです。子どもは、そのような親からの存在承認によってこそ、自ら成長していく力を手に入れることになるのです。

 

 ありのままに生きることと、ありのままを認めることは、全く別の次元のことといえます。

 

ありのままを認める(H270611)

 子どもに問題が起きた時、親が子どもの間違いを正して、心を入れ替えるようにと必死になるときがあります。怒鳴りつけたり、泣き落としてみせたり、必死になって子どもにうったえかけます。

 子どもを何とかしようと一生懸命になるわけですが、実は、親のそのような必死な態度こそが、子どもをますます追いつめてしまうことにもなりかねません。

 

 親が子どもの心を変えようとする気持ちの裏側には、今のままではだめだという否定の気持ちがあります。心を入れ替えなければ今のあなたには価値がない、と迫っているのと同じことになります。親が必死になればなるほど、子どもは自分が否定されていることに傷つき、そこから逃避するために責任逃れをして心を閉ざしてしまいます。

 そして、自分を認めてもらえない絶望感を感じ、ますます親の言うことを聞かなくなります。

 

 親が最初にしなければならないことは、子どものありのままの姿を認めることです。子どもが起こした問題も含め、一切合切のすべてを受け入れることです。そして、できればそれを許してあげることです。

 変わることを強制することより、今、目の前にいる子どもを認めてあげることのほうが、子どもが変わっていく可能性が高いものです。子どもは成長とともに、自分の生き方を模索しています。心のわだかまりや不安感を取り除いてあげれば、自分の力で前に進む力を持っています。

 

 人は、心の視野が狭くなると、相手に自分の意見を認めさせることばかり専念してしまいます。自分の立場やプライド、自分の意見を認めないことへの憤りなどが、相手の立場や気持ちを思いやることを忘れさせてしまいます。そのような自分本位な態度がお互いの関係を悪化させることとなり、「自分はこんなにも尽くしているのに、どうして分かってくれないのか」と相手を責めることになります。

 自分の意見を押し通そうとするから、必死になって迫ることになってしまいます。相手が自分を認めてくれなくても、自分は相手を認めるという心の広さが大切でしょう。そういう気持ちで接することができれば、結果的に自分が認められることになります。

 

 子どものことを認めるということは、わがままにさせたり、甘やかしたりすることではありません。子どものすべてを受け止め、よく話を聞いてあげることです。そして、子どもの気持ちを理解してあげることです。子どもの心が、不安や恐れや怒りの感情で満たされているうちは、人の話を聞くことはできません。

 まずは、子どもが話しやすい環境をつくり、子どもに話をさせ、それをよく聞くことです。問題を起こしたとしても、その裏側にある子どもの気持ちを受けとめてあげることが大切です。そして、心が和らいできたときに、どうすることが一番いいのかを子どもに深く考えさせることです。答えは、子どもの心の中から生まれてくるはずです。

 

 

押し付けない愛情(H270608)

 人は皆、意識や思考の中心に自分を置きます。自分が行う行動に対しても、周りからの反応を期待します。ですから、完全に何の見返りも求めず人のために尽くすということは、なかなかできるものではありません。

 人の役に立ったり、人のために尽くしたりすることは、とても良いことですが、結局それは自分のためであることのほうが多いものです。このとき、「自分のためである」という意識があれば、それはそれでいいのです。それを「相手のためである」などと言いはじめると間違いが生まれてきます。

 

 よく、子どもに対して、「あなたのためを思って言っているのよ」という親がいます。何かあるたびに、子どもの行動を指図し、うるさく注意し、結果を見て怒る人がいます。そのような親の心の内面には、子育てに対する不安や、他の子どもとの比較から生じる劣等感が生じている場合が多いものです。

 

 子どもは、親から「あなたのため」といわれると、次の言葉を失ってしまいます。この言葉の前では、すべてが正当化されてしまいます。親が子どもの反論を封じ込め、親の意見を押し付けるのにはとても便利な言葉ですが、そのようにして発せられた言葉には、子どもを成長させる力はありません。

 さらには、「あなたのため」という言葉は、子どもを追いつめてしまうことにもなります。子どもは、親の言うことに従うという条件下での愛情しか感じ取ることができません。そういう子どもは、自分が人にどのように見られているかという、人の顔色をうかがってばかりいる子どもになりがちです。これでは、誰の人生を歩んでいるのか分からなくなってしまいます。

 

 愛情や善意というものは、受け取る側が感じるものであり、与える側が押し付けるものではありません。愛情の押し付けは、相手を苦しめるだけともいえます。

 そういう親も、実は子どもを愛して止まないのであり、本気で子どものためと思い込んでいるものです。この子を立派に育てなければならないと一生懸命なのです。

 しかし、その「信じて疑わない」と思えるほどの親の自意識の強さが、もっとも大きな問題ともいえます。

 

 親が子どもに伝えるべきことは、「あなたがそこにいてくれるだけで嬉しい」という無条件の愛から出てくる思いなのです。大切なことは、子どもの心に自己の存在に対する絶対の安心感を与え、揺るがない愛情の中で「自分」という人格を形成させることです。そうすることで、子どもは生きることに自信を持ち、自分を大切にできるようになります。そして、同時に、他人のことを思いやり、他人のことを大切にできる人に育っていきます。

 

 また、このような子は、自立に向かいやすくなります。「勉強しなさい」と強制されなくても、自分にとって必要な学びが何であるかを考え、勉強に対して主体的な意欲を持つようになっていくものです。親としては、そのような子どもの成長する力こそ信じてあげるべきでしょう。

 

 

怒っても人は育たない(H270601)

 人を育てたいと思うのであれば、怒ってはいけません。怒るということは、攻撃的な感情によって相手をおとしめたり、相手に要求を飲ませたりすることです。その行為は、背後にどのような理由があるにせよ、互いの良好な関係を壊してしまうことにつながります。

 

 立場上の強弱関係から、子どもは親に、部下は上司に怒られないように振舞うことはありますが、それで意にかなった行動をするようになったとしても、それは成長ではありません。単なる行動上の装いでしかありません。

 怒られた側の心の深い部分にはマイナスの感情が残ります。それを受け止めるにしてもストレスをためることになります。そこから生まれるものは、新たな怒りの感情か、逃避への衝動か、自己を否定する意識です。

 

 怒りの行動は物事を破壊せずにはいられません。怒りの感情から生まれるもので良いものは何一つありません。表面的な現象の内側に、より根深い深刻な問題を抱え込むことになります。

 

 怒るということは、目に見えない負債を抱え込むことと同じです。それは、いつかどこかで自分が返済しなければならないものとして現れます。それが直接的か間接的かを問いません。当事者以外からの環境の変化として現れる場合もあります。それを避けるには、怒りの感情に身を任せないことです。そのためには、自分のほうが成長しなければなりません。

 

 では、子どもが悪いことをしたり、真剣に生きることに背を向けたりしたときにはどうすればいいのでしょうか。それは、怒るのではなく、子どものすべてを受け止めた上で「さとす」ことです。子どもを一人の人間として尊重し、心から愛情をもって話しかけることです。

 親が自分の価値観を子どもに伝えることは大切なことです。子どもは、その価値観に対立することもあるでしょうが、親の思いは心に残ります。怒りの感情をこらえ、愛情を思い出し、真剣に子どもに向き合うことが大切です。

 

 愛情をまとった言葉は必ず相互関係の中に価値を生み出します。それは、怒りの感情がもたらす逆の効果といえます。相手を思いやり、相手の存在を認めた上での話しかけは、いつかどこかで価値あるものとして子どもの行動の中に現れてきます。

 

 同じような言葉、同じような対応であっても、その奥に潜む心の感情によって結果は大きく異なります。人は言葉の奥を読み取ります。表情や態度、ほんのわずかな眉の動きにさえ何かを感じ取ります。

 人の心は見えないし、何を考えているのかも分からないと思われがちですが、実は、その心の奥に潜む部分は必ず伝わるようにできています。人の心の受信能力は、潜在的な部分を感じ取れるようにできているのです。

 私たちは知らず知らずと自分というものを周りに表出しています。何気ない言葉や行動、人を見る眼差しや癖などによって、自分の心の内面を伝えています。

 

 人を育てるには、伝える側が誠意をもって対応することが必要です。誠意がなければ、相手の心を動かすことはできませんし、相手が変わることもありません。相手を思いやることの大切さや誠意の重たさを感じることができれば、相手が子どもであれ、部下であれ、怒るという行動にでることはないでしょう。

 

 

思考や行動は癖になる(H270529)

 物理現象と同じように、人の思考や行動には「慣性の法則」が働きます。困難から逃げる人は困難から逃げることが癖になり、挑戦する人は挑戦することが癖になります。感謝する人は感謝することが癖になり、人の悪口を言う人は悪口をいうことが癖になります。

 笑う人は笑うことが癖になり、悲しむ人は悲しむことが癖になります。幸せな人は幸せであることが癖になり、不幸な人は不幸であることが癖になります。このように、人の思考や感じ方、行動などは、知らず知らずのうちに癖として自分の生き方の一部と化してしまいます。

 

 習慣というのは、恐ろしいようで便利でもあります。大きなことを成し遂げるには、大きな努力よりもむしろ小さな習慣としての積み重ねのほうが大切です。習慣は、最初の一歩を踏み出すことから始まります。さらに、それが人に認められることや充実感や達成感を得られることであれば、簡単に習慣化できます。逆に、まずいことは習慣化する前に止めなければなりません。

 

 親や教師は、子どもに何を習慣化させるかを意識しなければなりません。躾(しつけ)というのは、この「慣性の法則」を利用して、子どもたちにとって大切な考え方や身のふるまい方を身に付けさせることです。躾のない子どもは動物と同じです。自由に行動しているように見えますが、実はそれは単なるわがままだったり、周りのことを考えることのできない行動だったりします。そして、そのような子どもは自立することはできません。

 

 躾というのは、礼儀作法や社会的ルール、マナーを身に付けることにより、自分と社会との関わりを意識させ、思いやりのある行動が自然にできるようにすることです。

 それは、一人の人間としての気品を持たせることであり、社会の中で自分や自分を取り巻く人々を大切にするために必要なことといえるでしょう。

 

 人の思考と行動は複雑に関係しあっています。人は思考に基づいて行動するものですが、逆に、繰り返される行動によって思考が形成されていく場合もあります。

 最初は、気が乗らない掃除や挨拶、履物をそろえることからボランティア活動まで、いろいろやっているうちに、その本質的な意味を感じ取ることができるようになります。

 躾という行動面での導きは、社会的な価値観のもとでの自己形成につながります。それは、自分の周りの社会を意識することであり、内面的には自立に向かう思考を生み出します。さらに、その思考は行動の規範を定め、「慣性の法則」に基づく習慣として自分の生き方の一部となるでしょう。

 

 一般的に、自立には精神的な自立と経済的な自立があります。精神的な自立は、自分と自分以外の人との関係の中で育まれていきます。子どもが成長するということは、自分を取り巻く人々との間に良好な人間関係を築き上げ、精神的な自立に向かっていくことです。

 また、経済的な自立は、自分と親や実社会との関係の中で築かれます。自立した人間にとって、働くということは生きるということと同じ意味を持つでしょう。

 

 いずれの場合を考えても、子どもの成長にとって大切なことは、自分を取り巻く人々や自分が生きている社会というものを意識させ、その中で生きている自分の在り方を考えさせることです。

 自立するためには、自分と社会との関係を理解することが大切です。そして、子どもが自立に向かって成長するためには、親が子どもを甘やかすことなく、深い愛情に裏付けされた躾が必要となってきます。

 

 

大切なものを失わないために(H270525)

 教育再生という言葉が使われ始めて久しくなります。子どもたちをどのように育てていくかという問題は、いつの世でも問われる問題ですが、その時代の価値観を色濃く反映するため、正解というものが見つけづらくなっています。

 人の成長には時間がかかります。年齢とともに人は変わっていきますが、その長い年月の中で社会も変化していきます。きっと人が生きていく上での「大切なもの」も変わっていくことでしょう。

 何が大切なのかは人によって異なるものですが、一人ひとりの人生の中においてさえ時間とともに変化します。人はより幸福な状態を求めて生きていますが、幸福とは心の感じ方の問題ですから、何が幸福なのかの基準はありません。

 

 しかし、親は自分の子どもに幸せな人生を歩んで欲しいと願っています。そして、その思いだけは社会が変化しても変わりません。子どもの幸福は子ども自身がつくるものだということは分かっていても、親としては、今、目の前にいるこの子に何をしてあげたらいいのかをいつも考えています。将来の生活に経済的な安定や社会的な地位を求め、より幸せな生き方ができるような環境に向かわせたくなります。それは、子どもの幸せが親の幸せでもあるからです。

 子どもが難関大学に合格し、安定した職業につくことは親の幸せなのです。その逆も言えることです。いずれ、子どもは、将来の夢や自分の進路目標に向かって努力を始めます。同時に、子どもは親の幸せを見て幸せを感じます。幸せな親を持つ子どもは幸せなのです。幸せは幸せを呼ぶ最良の方法なのです。

 

 一方、進学をはじめとする進路決定の段階では、いくつかの乗り越えなければならない壁が存在します。そして、その壁を乗り越えることで、子どもは大きく成長していくことになります。壁は高いほど、困難は多いほど子どもの成長を促します。

 子どもは、大きな困難を目の前にしたとき、独りでないことに気づき、親をはじめとする自分を取り巻く環境に感謝する気持ちに気が付きます。大学受験そのものは単なる手段にしかすぎないものですが、それによって困難な目標に向かうことには、いろいろな意味で大きな価値があります。

 

 経済的な安定や社会的地位はあとからついてくるもので、それはどちらかといえば親の願望なのかもしれません。しかし、子どもはそんな親の価値観を見て育ちます。子どもが自立し成長するということは、親の価値観を否定することではありません。子どもが自分の人生を生きていく上で親と対立することはよくあることですが、どんな状況であっても親の思いは子どもの心に残っているものです。

 そして、子どもは、子どもなりのいろいろな学びの中で価値あるものを見いだし、親の価値観を吸収し、いずれ自分で価値あるものをつくりあげていきます。

 

 親や教師は、子どもの成長を最後まで見届けることはなかなかできませんが、「あの悪ガキがこんなにも立派になって・・・」という言葉をよく耳にします。何がいい教育なのか、子どもの成長にとって何がいいのかは、将来子どもがどのように育ち、どのような価値を生み、どのような幸せを感じ取るのかによるでしょう。

 

 人の成長にとって、優れた環境というのは何でしょうか。「不便、不自由、不親切」こそ最良の教育環境だと話す人もいます。カウンセリングやコーチングの大切さを説く人もいます。人の性格が千差万別であるように、環境が人に及ぼす影響も多種多様です。しかし、人を成長に向かわせるもの、昨日の自分を越えさせるものは、どんな場合も自分自身の中にあるものです。

 

 教育再生が言われている今、大切なものを失わないために何が必要なのかを考えてみましょう。

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